Vagabond Shoes

Now we are in Bali, Indonesia. 2009年末から旅に出ました。

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ウィーン到着&ハプスブルク宮殿

早朝6:40、国際バスはウィーンのErdbergにあるバスターミナルに無事到着。

車内は静かで、ぐっすり眠れて爽快です。

まずはいつもの通りオーストリア情報をどうぞ(外務省HPより)


国名:オーストリア共和国(Republic of Austria)

一般事情

1.面積 約8.4万平方キロメートル(北海道とほぼ同じ)

2.人口約830万人

3.首都ウィーン(人口約160万人)

4.民族主としてゲルマン民族

5.言語ドイツ語

6.宗教カトリック約78%、プロテスタント約5%

7.略史

年月 略史
1270年 ハプスブルク家ルドルフ公、オーストリア王権確立
1918年 第一次世界大戦敗北によりハプスブルク帝国崩壊、共和制開始
1938~1945年 ナチス・ドイツによるオーストリア併合
1955年 連合国との国家条約締結により独立を回復。永世中立を宣言、国連加盟。
1995年1月 EU加盟

政治体制・内政

1.政体 連邦共和制(9つの州から構成)

2.元首 ハインツ・フィッシャー大統領(Dr. Heinz Fischer、任期6年、2004年7月8日就任)

3.議会 2院制

* 国民議会(下院)183議席
* 連邦議会(上院)62議席

4.政府

(1)首相 ヴェルナー・ファイマン(Mr. Werner Faymann)(社民党)

(2)欧州・国際関係大臣(外相) ミヒャエル・シュピンデルエッガー(Dr. Michael Spindelegger)(国民党)
(2007年3月、外務省の名称が「欧州・国際関係省」に変更された。)

5.内政

* 戦後、社民党及び国民党による二大政党政治が続いていたが、1999年10月の下院選挙で、第三党であった野党の自由党が移民受け入れ反対等を唱えるハイダー党首(当時)の下で議席を伸ばし、国民党と自由党の連立による中道右派政権が成立(第1次シュッセル内閣)。その背景として、13年間にわたる社民党及び国民党の大連立政権下での癒着、バルカン半島での紛争激化に伴う外国人の増加や治安悪化に対する国民の不満等があった。

* ハイダー党首は、その政治姿勢が極右的と評されたため、自由党の政権入りに反発した他のEU14ヶ国は、オーストリアとの政治レベルでの二国間の公的接触を行わず、オーストリア要人の訪問も受け入れない等の二国間措置を発動したが、アハティサーリ・前フィンランド大統領をはじめとする3名の賢人グループによる人権状況等に関する調査結果を踏まえ、2000年9月に同措置を解除。

* 2002年9月、自由党内の対立を発端に連立政権が解体。同年11月の総選挙では、国民党が歴史的大勝利をおさめ、自由党は大敗、社民党は、36 年振りに第一党を国民党に譲った。社民党と自由党との間で連立政権の継続につき合意が成立し、2003年2月に第二次シュッセル内閣が発足した。

* 2004年4月、任期満了に伴う大統領選挙が行われ、フィッシャー国民議会第二議長(当時、社民党)が勝利し、7月8日に大統領に就任。

* 2005年4月、自由党内の路線対立によりハイダー元党首が右派新党「未来同盟」を結成し、連立政権における自由党の閣僚の全員が未来同盟に移った。所属議員の大部分を失った自由党に代わって、未来同盟が国民党との連立政権に参加することとなった。

* 2006年10月の国民議会選挙では、国民党が僅差で敗北し、社民党が第1党となった。連立政権交渉の結果、2007年1月に社民党のグーゼンバウアー党首を首相とする社民党・国民党の大連立政権が発足した。

* その後、社民党と国民党は、EU政策、年金政策、税制改革等、オーストリアの主要政策における方針の対立が鮮明となり、2008年7月に連立政権が解消、オーストリア国民議会(下院)が解散された。

* 国民議会の解散を受けて、2008年9月28日に選挙が実施された結果、社民党及び国民党は前回選挙から大きく議席を失い、自由党・未来同盟の両右派政党が躍進する結果となった。1ヵ月半に渡り連立政権交渉が行われた結果、世界金融危機への対応を優先し、その他政策課題も協力して取り組むことで、社民党及び国民党の連立政権合意がまとまり、12月2日にファイマン社民党党首を首相とする新政権が発足した。

* ファイマン首相は、2009年12月2日、政権成立1周年を記念して施政方針演説を行い、雇用対策に重点的に取り組んでいくことを表明している。

* 2010年4月25日、フィッシャー大統領の任期満了に伴う大統領選挙が行われ、現職のフィッシャー大統領が再選された。

2008年9月28日実施国民議会選挙結果 政党 議席数 増減
社民党 57 –11
国民党 51 –15
自由党 34 +13
未来同盟 21 +14
緑の党 20 –1

外交・国防

1.中立政策

 戦後の米英仏ソ4ヶ国による分割統治を経て、1955年に独立を回復し、同年10月、永世中立を宣言、国連への加盟も果たした。NATOには未だ非加盟だが、協力関係(PfP枠組み文書に署名)にある。EU(1995年に加盟)の共通外交安全保障政策(CFSP)は中立政策と両立するとの立場。
なお、2009年1月から国連安保理非常任理事国を務めている。

2.EU政策

 東西冷戦下では、政治体制の如何を問わず近隣諸国を中心とした二国間関係の緊密化を目指してきたが、1994年6月に行われたEU加盟を巡る国民投票において、賛成66.4%(投票率81.3%)にてEU加盟が承認され、1995年1月にEUに加盟し、西欧(EU)志向の政策をとるようになった。その後のEU東方拡大の流れを受け、近隣のEU候補加盟国との「地域的パートナーシップ」構想を打ち出すなど、EUの枠組みの中で中・東欧地域との結びつきを強化する傾向にある。2000年9月のEU14カ国による「二国間措置」が解除されてからはEU各国との要人往来も元通り行われるようになり、一時期のぎくしゃくした関係は見られなくなった。2004年5月には中・東欧諸国の多くがEU新規加盟を果たし、地理的にEUの中心を占めることとなった。地理的・歴史的に西バルカン諸国とのつながりが深く、西バルカン諸国のEU加盟に向けた働きかけを積極的に行っている。2006年前半はEU議長国を務めた(98年後半に続いて二度目)。

3.国際機関

 ウィーンは、ニューヨーク、ジュネーブに次ぐ「第三の国連都市」として、国際原子力機関(IAEA)や国連工業開発機関(UNIDO)等、国連諸機関の本部が置かれている他、OSCE事務局やOPEC本部を有する国際都市。冷戦期には東西両陣営の接点として、ケネディ-フルシチョフ会談(1961 年)等数々の国際交渉の舞台ともなった。

4.国際貢献

 国連平和維持活動に積極的に取り組む(ゴラン高原等8つのPKO約400人を派遣)他、コソボ支援(KFOR:約500人)やボスニア支援(EUFOR:約300人)を行っている。

5.イラク問題

 墺政府は、対イラク武力行使には、武力行使を明示的に容認する国連安保理決議の採択が必要との立場を維持し、連邦軍部隊の派遣や米軍等の領空通過の許可を行わなかった。但し、対イラク武力行使終了後は、少数の政府職員及び民間人を人道支援目的(イラク南部の病院再開プロジェクト)で派遣。

6.気候変動問題

 京都議定書では、EU全体の温室効果ガス排出量を2008年から2012年の期間内に1990年比マイナス8%とすることを義務づけており、これを踏まえたEU内の規定により、オーストリアは同期間内に、1990年比マイナス13%とする義務を負っている。
同目標達成のため、オーストリア政府は、①水力発電利用の更なる促進、②エコ電力法(再生可能エネルギーによる発電を行う事業者(エコ発電事業者)に対し、関係当局が市場価格を上回る価格で買取りを行うことで事業者を支援すること等を内容とするもの)の活用、③気候ファンドの設立などを行っている。

経済(出典:オーストリア統計局 2009年)

1.名目GDP総額 2,755億ユーロ

2.1人当たりGDP 29,300ユーロ

3.実質GDP成長率 -3.6%

4.消費者物価上昇率 0.4%

5.失業率 5.4%

6.主要産業 機械、金属加工、観光

7.貿易 輸出 942億ユーロ(自動車、電気製品、機械、鉄鋼等)

輸入 978億ユーロ(自動車、電気製品、機械、原油等)

8.通貨 ユーロ(2002年1月より流通開始、2010年1月現在、1ユーロ=約128円。)

9.財政(2009年連邦予算)

歳入 639億ユーロ
歳出 774億ユーロ

10.最近の経済概況

主要経済指標 2007年 2008年 2009年
名目GDP(単位:百万ユーロ) 270,837 283,880 275,538
1人当たりGDP(単位:ユーロ) 31,600 32,299 29,300
消費者物価上昇率(単位:%) 2.2 3.2 0.4
失業率(単位:%) 4.4 3.5 5.4
(出典:オーストリア統計局、オーストリア財務省、WIFO)

* 2007年までは、中・東欧諸国の経済成長を背景に、輸出増加及び堅調な設備投資等により高い経済成長を遂げた(実質GDP成長率:2006年 3.5%、2007年3.5%、出典:オーストリア統計局)。しかし、2008年秋以降、世界金融危機の影響により輸出や投資が落ち込み、2009年には 3.6%のマイナス成長となった。

* 金融危機後、自己資本不足に陥った金融機関もあったことから、政府は銀行への公的資金注入(150億ユーロ)、銀行間取引に対する政府保証(750億ユーロ)、預金保護に必要な政府保証(100億ユーロ)を内容とする一連の金融危機対策を実施した。

*  失業率は他の欧州諸国に比して低く、経済の好調により非常に低い水準で推移(2007年4.4%、2008年3.5%、出典:オーストリア統計局)してきたが、近年の経済悪化を受け人員削減の動きが強まっており、2009年は5.4%にまで上昇した。

*  一方で、オーストリアを訪れる外国人は年々増加しており、2009年の訪問者数は、延べ2,136万人(うち、日本人訪問者数は約20万人)であった。(出典:オーストリア統計局)

二国間関係

1.政治関係

* 伝統的に友好な関係。1869年に修好通商航海条約を締結して外交関係を樹立(当時はオーストリア=ハンガリー二重帝国)。また、1955年のオーストリアの永世中立国の宣言に対して我が国は1番最初に承認を行った。

* 修好130周年にあたった1999年に、クレスティル大統領(当時)が国賓として来日した。2002年7月には、天皇皇后両陛下がポーランド及びハンガリーを御訪問の途次お立寄りになった。2006年4月、シュッセル首相がEU議長国として訪日した際、小泉総理との間で二国間首脳会談を行った。また、2006年8月、眞子内親王殿下がホームステイのためウィーンに御旅行になった。

* 2009年は、両国の外交関係開設140周年に当たり、「日本オーストリア交流年2009」として両国で祝うこととなった。2009年1月には、シュピンデルエッガー外相、プラマー下院議長が相次いで訪日した。また、「日本オーストリア交流年2009」の日本側名誉総裁である秋篠宮殿下は、5月10日~13日、妃殿下と共にオーストリアを公式訪問された。

* 2009年9月30日~10月3日には、オーストリア側名誉総裁であるフィッシャー大統領が夫人とともに訪日し、天皇皇后両陛下との御会見及び午餐に出席し、鳩山総理との首脳会談、夕食会等を行った。

2.経済関係(財務省統計)

(1)対日貿易

 日本はオーストリアにとり、アジア有数の貿易相手国。2003年は日本の輸出超過であったが、2004年以降は輸入超過が続いている。オーストリア連邦産業院は対日輸出促進プログラム「サクセスフル・イン・ジャパン」の第2段階(1998年から2000年末まで)を実施、2001年から「ジャパン・ナウ」と題して対日輸出支援を行った。2004年より2006年まで墺・経済労働省の呼びかけによって墺・連邦産業院と共同で、商品輸出、サービス輸出、海外直接投資の促進を三本柱とする「go-international」政策を行った。

 日→墺(輸出):739億円(自動車、建設鉱山用機器等)(2009年)
 墺→日(輸入):1,263億円(機械類、自動車、木材、家具等)(2009年)

日・オーストリアの貿易の推移 (単位:億円)(括弧内は対前年度比増減(%))
  対オーストリア輸出 対オーストリア輸入 収支
2002年 1,084 (3.8) 1,145 (4.9) -61
2003年 1,342 (19.2) 1,219 (6.1) 123
2004年 1,356 (1.0) 1,413 (15.9) -57
2005年 1,187 (-12.5) 1,461 (3.3) -274
2006年 1,388(16.9) 1,792(22.7) -404
2007年 1,521(9.6) 1,885(5.2) -364
2008年 1,297(-14.7) 1,613(-14.4) -316
2009年 739(-43.0) 1,263(-21.7) -524
(出典:財務省貿易統計)

(2)投資

2008年の対オーストリア直接投資は30億円、対日直接投資は45億円。(出典:日銀「国際収支統計」)

3.文化関係

* 日本とオーストリアの長い交流の歴史を反映し、両国間の文化・芸術面での交流は活発である。

* 日本とオーストリアは、1869年10月18日、修好通商航海条約を締結したことから、2009年は日本とオーストリアの外交関係開設140周年の節目に当たる。2006年に行われた日本とオーストリアとの間の首脳会談において、両国は2009年を「日本オーストリア交流年2009」とすることを決定し、両国では演奏会や展覧会など200件以上の認定事業が行われた。なお、2009年はオーストリアを含むドナウ川流域4ヵ国(ハンガリー、ルーマニア、ブルガリア)との周年を記念した「日本・ドナウ交流年2009」も実施されている。

* 両国間の文化交流ではとりわけ音楽分野での交流が活発なことが特徴とされ、ウィーン国立音楽大学等において多くの日本人留学生が音楽を学ぶ他、小澤征爾氏(ウィーン国立歌劇場音楽監督)をはじめオーストリアを拠点として活動する日本人音楽家も多い。また、ウィーン少年合唱団、ウィーン国立歌劇場、ウィーン・フィル等の著名な楽団が毎年のように日本公演を実施している。

* アニメ・ブームの影響もあり、日本語を学習する学生の数は少なくない。オーストリアで唯一日本学科を有するウィーン大学東アジア研究所には、毎年 100名を超える学生が入学している。日本の伝統文化や武道等に関心を持つオーストリア人も少なくない。日本食もブームとなっている。

4.在留邦人数

2,188人(2009年10月)/在留邦人は、音楽関係者、音楽留学生、在ウィーンの国際機関職員及びその家族等が多いのが特徴。

5.在日当該国人数 在日オーストリア人:約416人(2009年7月)


さて、続きです。

首都ウィーンはモーツァルトやベートーヴェン(ドイツ人)が活躍した音楽の都。

そして、かのハプスブルク家が収集した絵画を収蔵する美術館が山ほどある芸術の都、素敵すぎる!!

私たちのウィーンでの一番の目的は、ハプスブルクコレクションの名画を見ること、そして誰もが知るオーストリアの画家クリムトの作品を見ること。

でもその前に、下記のとおりウィーン情報もお勉強(Wikipediaより)。

ウィーン(独: Wien, 巴:Wean(ヴェアン),仏: Vienne(ヴィエンヌ), 英: Vienna(ヴィエナ)) は、オーストリアの首都であり、人口は169万8957人(2009年12月31日)。都市単独で一つの連邦州であり、欧州有数のグローバル都市。クラシック音楽が盛んで「音楽の都」・「楽都」とも呼ばれます。

第1次世界大戦まではオーストリア=ハンガリー帝国の首都としてドイツを除く中東欧の大部分に君臨し、さらに19世紀後半まではドイツ連邦や神聖ローマ帝国を通じてドイツ民族全体の帝都でもありました(ただしドイツ全域に政治的支配権が及んでいたわけではない)。

ローマ時代、ウィーンはちょうど帝国の北の境界にあたる位置にあり、恐らくケルト語源でウィンドボナ(bonaはケルト語で集落・町)と呼ばれる宿営地が置かれ、これがウィーンの地名の起源と言われています。

中世にもドナウ河沿いの交易地として発展したウィーンが本格的な発展期を迎えたのは、オーストリアを治めていたバーベンベルク家が1155年にクロスターノイブルクからウィーンに都を移したことに起因します。

しかし、バーベンベルク家は13世紀半ばに断絶し、1278年よりオーストリア公となったハプスブルク家の支配下におかれます。

14世紀、建設公と称されたルドルフ4世のもとで、ウィーンは大きな発展を遂げ、この時代にシュテファン寺院(シュテファン大聖堂)やウィーン大学が建設されました。

やがてハプスブルク家は婚姻政策の成功により16世紀に入るとボヘミアやハンガリーを初めとする多くの王国を相続し、ドイツの神聖ローマ帝国の帝位を独占。16世紀前半にはカール5世のもとヨーロッパ最大のドイツ系帝国を築くに至りました。

一時はオスマン帝国による第一次ウィーン包囲(1529年)など、ヨーロッパ全体を震撼させる事件もあったが、ハプスブルク家のもとで帝都ウィーンでは華やかな貴族文化が栄えていきます。

1683年にもオスマン帝国による第二次ウィーン包囲を受けたものの撃退、17世紀末からは旧市街の王宮ホーフブルクに加え、離宮シェーンブルン宮殿が郊外(現在は市内)に造営されました。

18世紀末にはヨーゼフ2世によりウィーン総合病院が開設され、プラーター公園が一般市民に開放されるなど都市環境が改善されます。

19世紀半ばに産業革命を迎えたウィーンは農村からの人口流入により急激に人口が増加し、1869年に63万人であった人口は、1910年には203万を数え、当時のヨーロッパではウィーンは、ロンドン、パリ、ベルリンと並ぶ都会でした。1873年にはウィーン万国博覧会も開催されました。

皇帝フランツ・ヨーゼフ1世は自ら立案して大規模な都市改造を行い、市壁を撤去し環状の道路と置き換え、路面電車を導入するとともに、歴史主義的建造物やモニュメントを街路に面して配しました。現在のウィーン旧市街の外観はこの改造によっている。

オーストリア=ハンガリー帝国は多民族国家であり、支配民族であったドイツ人は帝国の人口5千万の25%あまりを占めるにすぎませんでした。

帝国各地からの人口流入により、ウィーンの街ではドイツ語・ハンガリー語・チェコ語・ポーランド語・イディッシュ語・ルーマニア語はもちろんのこと、ロマ語・イタリア語までヨーロッパのあらゆる言語を耳にすることができたと言われます。帝国各地からあらゆる民族出身の才能が集まり、ウィーン文化はその絶頂期を迎えたのです。

そして、1914年に始まった第一次世界大戦は1918年にドイツ帝国・オーストリア帝国の敗北をもって終了。ハプスブルク家のオーストリア帝国は解体し、チェコスロバキア、ハンガリー、ユーゴスラビア、ポーランドなどが次々と独立、ウィーンは経済的困窮に追い込まれます。

新しい共和国の首都となったウィーンでは社会主義系の市政が発足し、保守的な地方の農村部からは「赤いウィーン」と呼ばれて、両派の政治的確執は国政全体の不安定へとつながりました。

また、ほぼドイツ人だけの国となった新オーストリアで、東端に位置しなお濃厚な東欧色を残すウィーンは微妙な立場でした。このような時代をウィーンで過ごしたアドルフ・ヒトラーはやがてドイツで独裁者となり、ヒトラーは母国オーストリアをドイツに併合し、ウィーンは約700年ぶりに首都でなくなったのです。

1945年、第二次世界大戦でナチスは崩壊し、ウィーンは米英仏ソ四ヶ国の共同占領下に置かれました。

1955年にオーストリアは主権国家として独立を回復。旧ハプスブルク帝国の継承国家の殆どが共産圏に組み込まれる中で、オーストリアでは共産党は国民の支持を得られず、経済的には西側との関係を保ったまま永世中立国として歩むことになったのです。

オーストリア人のクルト・ヴァルトハイムは国連事務総長としてウィーンをニューヨーク、ジュネーヴにつぐ第三の国連都市にすることに成功し、ウィーンは数々の国際機関の所在地となりました。

しかし、鉄のカーテンにより、かつての後背地であった東欧を失ったウィーンの人口はゆるやかに減少を続けました。

そして1989年のベルリンの壁崩壊は、中欧におけるウィーンのもつ価値を蘇らせることになりました。150万人を切っていた人口は外国人の流入により再び増加傾向にあり、2050年ごろには再び200万人の大台を回復すると予想されています。これは2004年に中東欧8ヶ国がEUに加盟したのに加えて、2007年にはルーマニアとブルガリアが加盟、その後もクロアチアをはじめとするバルカン諸国の加盟が見込まれることによります。

ウィーンには中東欧の経済的中枢として多くの多国籍企業が進出するようになりましたが、旧共産圏諸国のインフラが整うにつれて、企業の拠点としてはプラハやブダペストなどとの競合も厳しくなっています。

ウィーン市は現在バイオテクノロジー産業の育成に注力しており、Vienna Biocenterなどを積極的に整備しています。他方、観光も相変わらずウィーンの重要産業となっています。

国際会議の開催件数では06年はパリを上回り世界1位でした。


さて、ウィーン到着後、バスターミナルからすぐ近くの駅からメトロに乗り、宿のあるAlser Strという駅までやって来ました。
ウィーンはメトロ、トラム、それにバスが縦横無尽に走っており、おまけに電光掲示板や路線図があちこちに設置されていて、言葉の分からない外国人でもとても乗りやすいように整備されています。
ただし運賃が1.8ユーロ(トラム、バス、メトロに乗換可、時間制限1時間)とちょっと高いのがたまにキズ。
1日券、3日券、回数券などを利用すると、かなり安く移動することができます。
私たちは『美術館入場料の割引』+『交通機関3日間乗り放題』がセットになった『ウィーンカード』18.5ユーロ/枚を購入しました。
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今晩からの宿『Thüringer Hof Hotel』
Booking.comでテレビ、バスルーム、朝食付、Wifi(1H:1ユーロ、24H:5ユーロ)
お値段は3泊分で220ユーロ、これまで滞在してきた宿に比べ格段に高い。けれどもここウィーンでは、この値段なら安いほうなのです 。。。
毎日のルームクリーニングもあるし、フルーツもつくし、朝食もゴージャスだし。とっても快適♪♪
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荷物をホテルに置いて早速出掛けます。まずはベタにシェーンブルン宮殿に行ってみることにしました。
ハプスブルク王朝の歴代君主が主に離宮として使用した宮殿で、現在、同宮殿と庭園群は世界遺産に登録されています。神聖ローマ皇帝マティアス(在位:1612年 - 1619年)が、ここでの狩猟時に美しい(schön)泉(Brunn)を発見したためにシェーンブルンと命名したと伝えられています。外壁は淡い黄色、テレジア・イエローというそうですが、彼女が好んでいた色というわけではありません。元々は皇帝フランツ・ヨーゼフ(マリア・テレジアの夫)が金を塗ろうとしたところ、マリア・テレジアが財政の状況を考慮し、黄金に近い黄色にしたそうです。建物は、あらゆる部屋を合計すると1,441室あり、両翼の端から端まで180mあり、正面右側翼には宮廷劇場があります。P9299730.jpg




宮殿への入場料は11.4ユーロ/名。(ウィーンカード割引後。入場料は、見学する範囲によって異なります。私たちはグランドツアーというコースを選択しました)
どこの国のツアーも、ここシェーンブルン宮殿へは必ず訪れます。こんなにゾロゾロと観光客でいっぱいです。
オーストリアで一番重要な観光資源で、年間入場数150万人。更に公園と動物園や行事での集客数520万人を合計すると年間には670万人が訪れるそうです。
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広いフランス式庭園を挟んで宮殿に向かい合う丘の上に見えるのは、グロリエッテという対プロイセン戦の勝利と戦没者の慰霊の為に立てたギリシャ建築の記念碑。
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宮殿内に入場すると豪華な部屋の連続。これはGreat Gallery
great gallery


Millions room
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Mirrors room
mirrors room



ここシェーンブルン宮殿で暮らした人々のうち、最も有名なのはマリア・テレジア。(以下Wikipediaより)

マリア・テレジア・フォン・エスターライヒ(Maria Theresiavon Österreich, 1717年5月13日 - 1780年11月29日)は、神聖ローマ皇帝フランツ1世シュテファンの皇后にして共同統治者、オーストリア大公(在位:1740年 - 1780年)、ハンガリー女王(在位:同じ)、ベーメン女王(在位:1743年 - 1780年)。

オーストリア系ハプスブルク家男系の最後の君主であり、彼女の子供たちの代からは正式には、夫の家名ロートリンゲン(ロレーヌ)との複合姓(二重姓)でハプスブルク=ロートリンゲン家となりました。

一般に「女帝」と呼ばれ、実態も女帝そのものであったが、実際には皇帝に即位したことはありません。

しかし夫である皇帝がフランス国境沿いの小国ロレーヌ公国(現フランス領)出身の養子的存在であり、ハプスブルク家領国内において実際の政治的権力をほとんど持たなかったこと、帝位は夫のものであったが、ハプスブルク家当主が継承してきた家督・オーストリア大公の位には彼女が就いていたこと、ハプスブルク家の領国を相続したのはマリア・テレジアであること、以上の理由により、彼女の肖像画には神聖ローマ皇帝(ハプスブルク家が世襲していた)の帝冠が添えられている場合が多く、当時としても、少なくとも領国内では「女帝」視されていたのです。

このためフランツは夫君、王配としてのイメージで捉えられ、マリア・テレジアの女帝的性格(実際は皇后であり女王)が広まったといえるのです。

偉大なるマリア・テレジアは、1717年、ハプスブルク家の神聖ローマ皇帝カール6世と皇后エリーザベト・クリスティーネの長女として誕生。

カール6世の最初の女子であり、両親は遥かヨルダン川の水で洗礼を受けさせたり、マリアツェル教会に黄金の子供像を奉納したりと大変かわいがりました。

彼女は母親譲りの輝く美貌を持ち、市民からの人気も高かったそうです。

1722年からウィーンへ留学に来ていた又従兄のロレーヌ公子フランツ・シュテファン(フランソワ・エティエンヌ)に恋します。その様子は「夜は彼のことを夢見、昼は女官達に彼のことを話している」とイギリス大使が記しているほどでした。

オイゲン公によりプロイセン王子フリードリヒ(後のフリードリヒ大王)との結婚案も浮上しますが、父カール6世もフランツのことを大変気に入っており、1736年の2月12日に2人は婚礼をあげました。当時の王族としては奇蹟にも近い恋愛結婚であったのです。夫との間に16人もの子女をもうけました。

それまでハプスブルク家はサリカ法典に基づく男系相続を定めていたが、彼女の兄が夭折して以後、カール6世に男子がいなかったことから、やがて次期後継者と目されるようになりました。

カール6世は国事勅書を出して国内および各国に、彼女のオーストリア・ボヘミア(ベーメン)・モラヴィア(メーレン)・ハンガリーなど、ハプスブルク家世襲領の相続を認めさせました。また、女子が皇帝になることはできなかったため、帝位には娘婿のロレーヌ公(1729年に父レオポルトから公位を継承した)フランツ・シュテファンが就くこととしたのです。しかしカール6世はそれでもなお男児(孫)の誕生を夢見ており、彼女に政治家としての教育は施すことはありませんでした。

しかし、その見通しの甘さはカール6世の死後すぐに露呈し、彼が死ぬと周辺諸国は娘の相続を認めず、領土を分割しようと攻め込んできました。これがオーストリア継承戦争(1740年 - 1748年)です。

プロイセン王フリードリヒ2世が最初に、自領の南にあるハプスブルク家領のシュレージエンに攻め込み、これに対し、マリア・テレジアはシュレージエン防衛の決意を明らかにし、第一次シュレージエン戦争、オーストリア・ザクセン戦争が勃発します。彼女は当時23歳(しかも第4子を妊娠中)であったが、1741
年3月13日ついに待望の男児ヨーゼフが誕生し、国内の士気は大いに上がります。

1741年6月25日にマリア・テレジアはまずハンガリー女王として即位しました。しかしその後、バイエルン選帝侯カール・アルブレヒトもオーストリアの敵に回ってしまいます。マリア・テレジアはバイエルンとの戦いを決意したものの、オーストリアは度重なる戦争のため戦費も援軍もすでになく、宮廷の重臣たちは冷ややかで窮地に追い込まれていました。そこで彼女はハンガリーへ乗り込み、9月11日ハンガリー議会で演説を行い、軍資金と兵力を獲得し、戦う態勢を整えたのです。

その後の戦況は二転三転し、一時は帝位もボヘミア王位もカール・アルブレヒト(皇帝カール7世)に奪われるものの、カールの死後に奪還し、1745年10月4日には夫フランツ・シュテファンを帝位に就けることに成功します。

しかし、プロイセンには軍隊の質などから敗北を喫し、1745年のドレスデンの和においてシュレージエンのプロイセン領有を承認。英仏間で戦争は続行され、最終的に1748年のアーヘンの和約(エクス・ラ・シャペル条約)によって終結した。

その後、マリア・テレジアはシュレージエンを奪還する目的で、ハウクヴィッツを登用しての内政改革やダウンによる軍改革を行いつつも、外交面においてはカウニッツを登用してフランスに接近します。

マクシミリアン1世以来長らくハプスブルク家と争ってきたフランスは、当時イギリスとも対立しており、プロイセンがイギリスと同盟したことが最終的なきっかけとなってオーストリアと同盟を結びます。これを外交革命といいます。

また、フランス王ルイ15世の愛妾ポンパドゥール夫人(政治上でも重要な地位を占めていた)、ロシアのエリザヴェータ女帝、そしてマリア・テレジアと3人の女性が反プロイセン包囲網を結成したことから「3枚のペチコート作戦」という呼称もあります。

1756年、プロイセンとオーストリアの間で再び戦争が勃発します。後に七年戦争と呼ばれるこの戦争は、前回と違ってフランスやロシアの同盟を得たオーストリアが優勢に戦争を進めるが、フリードリヒの粘りによって財政的負担が重くのしかかってきました。

1762年、ロシアでオーストリアとの同盟を推進してきたエリザヴェータ女帝が死去し、甥でフリードリヒの信奉者のピョートル3世が即位した結果、ロシアが最終的に戦争そのものから離脱、その後オーストリアが敗戦したことで、マリア・テレジアはシュレージエン奪還を諦めざるを得なくなりました。こうして1763年のフベルトゥスブルク条約で、シュレージエンのプロイセンによる領有が確定したのです。

彼女はオーストリアを強国にすべく、封建制度に縛られず様々な改革を行いました。

・小学校の新設
他国に先駆け、全土に均一の小学校を新設。義務教育を確立。全国で同内容の教科書が配布され、各地域それぞれの言語で教育が行われた。その結果国民の知的水準が大きく上昇。

・ 徴兵制度の改新
軍事行政委員が設置され、軍税徴収に関する等族の介入が排除された。1762年には軍事機構が宮廷軍事庁の下に統括され、宮廷軍事庁が最高決定機関となった。また、一般徴兵制が採用された。この徴兵制は全国民の無差別の兵役義務を承認しており(実際は身分差別あり)、農民出身であっても給料を得られるようになったことで、兵士達が安定した生活を保証され、オーストリアの軍事力は格段に上がった。

七年戦争後もマリア・テレジアによる改革は進められたのですが、この頃になると啓蒙主義的な官僚の勢いが強くなり、改革も次第に啓蒙主義的な色彩を帯びるようになります。衣装の自由化(1766年)やイエズス会の禁止(1773年)などがその代表的ですが、彼女自身は次第に保守化していきます。

1765年に死去した夫フランツに代わって帝位についた息子ヨーゼフ2世の急進的な改革姿勢とはしばしば意見が対立し、宰相カウニッツも彼女への不満を書き残しています。

そして1780年、死去。遺体は最愛の夫フランツと共に、ハプスブルク家の墓所であるカプチーナ礼拝堂に埋葬されました。

ちなみに、ハプスブルク家(ドイツ語: Haus Habsburg)というのは、現在のスイス北東部のライン川上流域に発祥したドイツ系の貴族の家系のことをいいます。

この地にはハビヒツブルク(Habichtsburg:「鷹の城」)古城が現存するが、この「ハビヒツブルク」が訛って「ハプスブルク」になったと考えられています。

古代ラテン人の有力貴族であるユリウス一門(カエサル家)の末裔を自称し、中世の血縁制度を利用した政略結婚により広大な領土を獲得、南ドイツを代表する大貴族に成長しました。

中世から20世紀初頭まで中部ヨーロッパで強大な勢力を誇り、オーストリア大公国、スペイン王国、ナポリ王国、トスカーナ大公国、ボヘミア王国、ハンガリー王国、オーストリア帝国(後にオーストリア=ハンガリー帝国)などの大公・国王・皇帝を輩出しました。

また、後半は形骸化していたとはいえ、ほぼドイツ全域を統べる神聖ローマ帝国(ドイツ帝国)の皇帝位を中世以来保持し、その解体後もオーストリアがドイツ連邦議長を独占したため、ビスマルクによる統一ドイツ帝国から除外されるまで形式的には全ドイツ人の君主だったのです。ヨーロッパ随一の名門王家と言われています。


ハプスブルク家当主・オーストリア大公マリア・テレジア、迫力がありますよね。
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そのほかには、この宮殿で暮らした有名人はマリー・アントワネット。この方は『ベルサイユの薔薇』であまりにも有名。
マリア・テレジアの末娘で、フランス王ルイ16世と結婚しフランス女王に即位するものの、フランス革命により処刑されました。アントワネットの肖像画はここでは2点見つけることができました。
150px-Marie_Antoinette_Young.jpg    150px-Marie_Antoinette_Young2.jpg



そしてもう1人はシシィの愛称で知られるエリーザベト・アマーリエ・オイゲーニエ(Elisabeth AmalieEugenie von Wittelsbach、1837年12月24日 - 1898年9月10日)。

彼女は、バイエルン王家であるヴィッテルスバッハ家傍系のバイエルン公マクシミリアンとバイエルン王女ルドヴィカの次女として生まれました。

身分の高い公爵家ではあるものの、王位継承権からも公務からも程遠い家庭のお姫様として、自由に伸び伸びと少女時代を過ごしたそうです。

そんな彼女の不幸は、1853年8月、姉ヘレーネと母方の従兄である皇帝フランツ・ヨーゼフ1世のお見合いにより始まるのです。なんと皇帝は姉ではなく、エリーザベトを見初めてしまい、1854年4月に彼女は16歳で結婚、オーストリア皇后となったのです。

意志に反して皇后になってしまったエリーザベトは、姑のゾフィー大公妃が取り仕切る厳格な宮廷に馴染むことが出来ませんでした。

四六時中姑の監視をうけ、子供達も姑に取り上げられ自分の手で養育することも叶わず、しだいに生活の大部分を旅行に費やし、ウィーンから避難し続けることとなります。

そして1898年9月、旅行中のジュネーヴ・レマン湖のほとりで、イタリア人の無政府主義者ルイジ・ルケーニに鋭く研ぎ澄まされた短剣のようなヤスリで心臓を刺されて殺害されました。

エリーザベトは皇帝フランツ・ヨーゼフとの結婚を後悔し続けたそうですが、一方の皇帝は常に妻を賛美し、生涯彼女を愛し続けたそうです。
当時のヨーロッパ宮廷一といわれたエリーザベドの美貌。身長172cmと背が高く、ウエスト50センチで体重は50キロという驚異の体形の持ち主でした。
痩身であることに執念を燃やし過酷なダイエットや美容方法でそれを維持していました。
宮殿で、彼女の美容室を見ることができましたが、健康器具あり、数々の美容グッズがあり、それはそれはマニアックでした。毎日数時間を費やして美容のためのお手入れをしたそうです。
一方夫である皇帝は、質素な生活を好み、毎朝4時に起床し、5時から夜遅くまで公務に没頭する真面目な君主だったそうです。
PortraitElisabeth_Georg_Raab_EK_02.jpg


宮殿をたっぷり見学した後は、庭園をお散歩。東西約1.2km、南北約1kmの規模があります。
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遠くに噴水が見えます。
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近づくとこんな変てこな噴水、なんだなんだこの噴水は??
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こんなリスが『餌くれよ~』と近寄ってきます。
P9299752.jpg P9299755.jpg


これでウィーン初日の午前の部終了です、ゼイゼイ。

ところで、ヒットラーってドイツ人だと思いがちですが、実はオーストリア人。あのシュワルツェネッガーもオーストリア人。

一方、ベートーベンはウィーンで活躍しましたが、ドイツ人です。
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