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Now we are in Bali, Indonesia. 2009年末から旅に出ました。

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アウシュヴィッツ

2010年9月にアウシュヴィッツ強制収容所を訪問したときのお話です。

ポーランドにやって来た目的は負の世界遺産『強制収容所』を訪れること。

シトシトと小雨が降るクラコウ2日目、重い気持ちで行って参りました。

施設へはバスが頻発していて1時間半程で到着します。
辺りはひっそりと静か。
身震いするほど今日は寒い、けれど、ここを訪れるのにはこんな気候が相応しいのかもしれない。
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以下Wikipediaより。

ホロコーストの象徴と言われる「アウシュヴィッツ強制収容所」とは、1940~1945年にかけて現在のポーランド南部オシフィエンチム市郊外につくられた、強制的な収容が可能な施設群(List of subcamps of Auschwitzに一覧)の総称である。

ソ連への領土拡張をも視野に入れた「東部ヨーロッパ地域の植民計画」を推し進め、併せて占領地での労働力確保および民族浄化のモデル施設として建設、その規模を拡大させていった。

地政学的には「ヨーロッパの中心に位置する」「鉄道の接続が良い」「工業に欠かせない炭鉱や石灰の産地が隣接する」「もともと軍馬の調教場であり、広い土地の確保が容易」など、広範なドイツ占領下および関係の国々から膨大な数の労働力を集め、戦争遂行に欠かせない物資の生産を行うのに適していると言える。

また、次第に顕著となったアーリア人至上主義に基づいた「アーリア人以外をドイツに入国させない」といった政策が国内の収容所の閉鎖を推し進め、ポーランドに大規模な強制収容所を建設する要因にもなった。

労働力確保の一方で、労働に適さない女性・子供・老人、さらには劣等民族を処分する「絶滅収容所」としての機能も併せ持つ。

一説には「強制収容所到着直後の選別で、70~75%がなんら記録も残されないまま即刻ガス室に送り込まれた」とされており、このため正確な総数の把握は現在にいたってもできていない。

収容されたのは、ユダヤ人、政治犯、ロマ・シンティ(ジプシー)、精神障害者、身体障害者、同性愛者、捕虜、聖職者、さらにはこれらを匿った者など。その出身国は28に及ぶ。

ドイツ本国の強制収容所閉鎖による流入や、1941年を境にして顕著になった強引な労働力確保(強制連行)により規模を拡大。ピーク時の1943年にはアウシュヴィッツ全体で14万人が収容されている。

たとえ労働力として認められ、収容されたとしても多くは使い捨てであり、非常に過酷な労働を強いられた。理由として、

・ナチスが掲げるアーリア人による理想郷建設における諸問題(ユダヤ人問題など)の解決策が確立されるまで、厳しい労働や懲罰によって社会的不適合者や劣等種族が淘汰されることは、前段階における解決の一手段として捉えられていたこと。
・領土拡張が順調に進んでいる間は労働力は豊富にあり、個々の労働者の再生産(十分な栄養と休養をとらせるなど)は一切考慮されなかったこと。
・1941年末の東部戦線の停滞に端を発した危急の生産体制拡大の必要性と、戦災に見舞われたドイツの戦後復興および壮麗な都市建設計画など、戦中と戦後を見越した需要に対し、膨大な労働力を充てる必要があったこと

などが挙げられる。

併せて、劣悪な住環境や食糧事情、蔓延する伝染病、過酷懲罰や解放直前に数次にわたって行われた他の収容所への移送の結果、9割以上が命を落としたとされる。

生存は、1945年1月の第一強制収容所解放時に取り残されていた者と、解放間際に他の収容所に移送されるなどした者を合せても50,000人程度だったと言われている。

すべての強制収容所はヒットラーによってSSの下に集約されており、SSが企業母体となる400以上にも上るレンガ工場はもとより、1941・1942年末以降の軍需産業も体系化された強制収容所の労働力を積極的に活用。敗戦後は、SSのみならず多くの企業が「人道に対する罪」を理由に連合国などによって裁かれた。


収容所の入り口。『働けば自由になれる』と書いてあります。(実際は解放されることはありませんでした。)
門のデザインがちょっと洒落ているところが、またこ憎たらしさを増します。
なお、収容所の入場料は無料です。
自分達の悲惨な歴史を世界に発信するために無料公開にして、運営資金は世界に散っているユダヤ人から寄付されているのだろうなぁ。。。
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敷地は二重に張り巡らされた高圧電流の通ったフェンスで囲まれています。
あまりの過酷な日々に耐え切れず、このフェンスを使って自殺をした収容人もいたそうです。
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各地からユダヤ人たちを乗せた電車が到着すると、彼らはプラットフォームに降ろされ、何か役に立つ知識や技術を持っているか労働に耐えうる者とそうでない者に選別されました。労働力にならないとされた者達は『入浴させる』と騙されて、衣服を脱がされてガス室送りになりました。
女性と子供の大半は、到着後すぐにガス室送りにされたそうです。
残った者は男女に分別されて、下のような建物に収容されました。
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劣悪な衛生状態で、疥癬、赤痢などの伝染病がはびこっていました。
食事は薄い水のようなスープと僅かのパン、コーヒーと呼ばれた泥のような飲み物だけでした。
重労働に対してカロリー不足なのはあきらかで、収容者の大半は飢えて亡くなったとのこと。
解放まで生き残った女性の1人は、元はふくよかな体型だったのですが30kgほどにまでやせこけてしまった写真を見ることが出来ます。
皮が骨に張り付き、ミイラのような身体となっていました。
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収容所に到着すると、三方向から写真を撮られ、ファイルに登録されました。
ファイリングの几帳面さがいかにもドイツ人らしく、こ憎たらしい。
収容可能人数を越える頃になると、電車が到着すると、選別されることも、ファイルに登録されることなく、全員が即、ガス室送りにされることも多かったそうです。
そのために収容所で亡くなった正確な人数がいまだもって把握できないのです。
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東ヨーロッパへの移住で新しい土地で生活できる、と騙されてやって来たユダヤ人も多かったそうです。
彼らはこれからも人生・生活が続くものだと信じていたので、大きな旅行かばんにありったけの財産をつめて、鍋や食器、ブラシや靴磨きセットなど日用品の持参して、ここにやってきたのです。
この収容所では、到着したときのユダヤ人達を撮った写真を何枚か見ることができます。
男性はきっちりとスーツ、ネクタイ、コートを着用し、帽子を被り旅行鞄を手にしています。
女性はやはり綺麗な洋服にコートを着ています。
まるでお洒落をして外出するようなファッションで収容所に到着しているのです。
自分が辿り着いた場所の正体を知ったときの衝撃はどれだけのものだったんだろう。
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これらの犠牲者の持参品は、ドイツが劣勢になり収容所がソ連に解放される直前、ナチスが証拠隠しのために焼却処理しましたが、あまりにもその量が膨大だったために処理が追いつかず、私たちはこのように残っているものを目にすることができるのだそうです。

目の前にうずたかくつまれた品々が、無言のままに語りかけてきます。
ブラシの山、タライの山、カバンの山、ガス室送りになる際に脱がされた靴の山。
私は靴の山の前で動けなくなりました。
大足の男性のブーツ、ひょろっと細い運動靴、ヒールの高いオシャレな靴、明るい色合いのパンプス、子供靴。
今では、おおくの見学者を迎え入れるために、きれいに整備されたこの収容所の中にいると、本当の目的に使われていた頃とはかけ離れていて、たくさんの人々が虐殺された空間にいるように感じなくなるときがあるのですが、人の足の形に添った靴は、ここで物のように処理された人々の1人1人がそれぞれ違う人間で、人生があった事を強烈に語りかけてきました。

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これは死の壁。奥の壁の前で銃殺刑が行なわれました。
右側の建物は、地下が牢獄になっており、この一室でカトリックの聖人コルベ神父が亡くなりました。
コルベ神父はユダヤ人ではなくポーランド人、でもナチスに批判的な言動をしたということで収容されていたのです。
1941年7月末、脱走者が出たことで、無作為に選ばれる10人が連帯責任の餓死刑に処せられることになりました。
囚人たちは番号で呼ばれていったのですが、フランツェク・ガイオニチェクというポーランド人軍曹が「私には妻子がいる」と叫びました。この声を聞いたとき、そこにいたコルベは「私が彼の身代わりになります、私はカトリック司祭で妻も子もいませんから」と申し出ました。
責任者であったルドルフ・フェルディナント・ヘスは、この申し出を許可、コルベと9人の囚人が地下牢の餓死室に押し込められました。
2週間後、コルベを含む4人はまだ息がありましたが、フェノールを注射されて殺害されました。
助けれれたガイオニチェクは生き残り、戦後世界各地で講演を続け、死去するその時までそれを行いました。またコルベ神父の列聖式典にも参加しました。
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ガス室、殺害に使用された薬品の空き缶。
ガス室には偽のシャワーノズルまで設置してあったそうです。
一説には、建物の密閉性や構造を検証した結果、この程度の設備では大量に人間を処理するのは困難で、ユダヤ人が自分達へ有利な世論を誘導するために、ナチスの罪を喧伝した『ガス室捏造疑惑』が存在しているそうです。
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写真撮影が禁止されていましたが(撮影する気も起こりませんでしたが・・・・)、
収容者の死体からとれる金歯など金目のものだけでなく、利用できるものは全て利用したようで、人の毛髪で織られた布がありました。
身の毛もよだつ話ですが、当時のドイツSS兵は、どのような思考回路でユダヤ人を処理し続けていたのでしょうか。。。。。
下等人種に対して何も感じないようになっていたのだと思いますが、環境次第で人はどうとでもなるものだと、教育の重要性を再認識しました。


人間は周囲の環境に影響されずにはいられませんから、その時代の熱狂にたやすく支配されてしまうのも仕方が無いのかもしれません。
そういう私たち自身も、自分達が知らないうちにマインドコントロールされていない、と言い切れ無いのではないでしょうか。

TVやネットなど、誰もが等しく情報にアクセスできる時代のように見えて、その実、誰かに都合の悪い部分は隠されて、耳障りのよいフレーズに置き換えられ、本当に大事なことは届かないようにされているのかもしれません。


今日はなんとも言いようもなくずっしりと重~い気持ちで帰ってきました。
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コメント

感慨深いですね~。
建物が洒落ているのが本当にこ憎たらしいですね。
人間はそこまで残酷になれるのかと思います。


日本は寒~いクリスマスイブです。

Re: タイトルなし

日本、寒そうですね~。
私たちはベリーズに着きました。
汗ばむ陽気です。
この陽気のなかで、家の壁に飾られているスノーマンや厚着をしたサンタを見ると、不思議な気分になります。

さて、普段はドイツ製品のクオリティやデザインの高さなど、さすがはドイツ人だ!、と感心することが多いのですが、ここばかりはその几帳面さが腹立たしく見えた日でした。

勝者側が敗者の子孫や文化を根絶やしにするというのは、世界各地の人間の歴史で見られることですが、実際に自分が現場を(遺構ですが)目の当たりにすると、教科書や歴史年表に書かれた文字以上の衝撃を受けました。

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