Vagabond Shoes

Now we are in Bali, Indonesia. 2009年末から旅に出ました。

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ウィーン到着&ハプスブルク宮殿

早朝6:40、国際バスはウィーンのErdbergにあるバスターミナルに無事到着。

車内は静かで、ぐっすり眠れて爽快です。

まずはいつもの通りオーストリア情報をどうぞ(外務省HPより)


国名:オーストリア共和国(Republic of Austria)

一般事情

1.面積 約8.4万平方キロメートル(北海道とほぼ同じ)

2.人口約830万人

3.首都ウィーン(人口約160万人)

4.民族主としてゲルマン民族

5.言語ドイツ語

6.宗教カトリック約78%、プロテスタント約5%

7.略史

年月 略史
1270年 ハプスブルク家ルドルフ公、オーストリア王権確立
1918年 第一次世界大戦敗北によりハプスブルク帝国崩壊、共和制開始
1938~1945年 ナチス・ドイツによるオーストリア併合
1955年 連合国との国家条約締結により独立を回復。永世中立を宣言、国連加盟。
1995年1月 EU加盟

政治体制・内政

1.政体 連邦共和制(9つの州から構成)

2.元首 ハインツ・フィッシャー大統領(Dr. Heinz Fischer、任期6年、2004年7月8日就任)

3.議会 2院制

* 国民議会(下院)183議席
* 連邦議会(上院)62議席

4.政府

(1)首相 ヴェルナー・ファイマン(Mr. Werner Faymann)(社民党)

(2)欧州・国際関係大臣(外相) ミヒャエル・シュピンデルエッガー(Dr. Michael Spindelegger)(国民党)
(2007年3月、外務省の名称が「欧州・国際関係省」に変更された。)

5.内政

* 戦後、社民党及び国民党による二大政党政治が続いていたが、1999年10月の下院選挙で、第三党であった野党の自由党が移民受け入れ反対等を唱えるハイダー党首(当時)の下で議席を伸ばし、国民党と自由党の連立による中道右派政権が成立(第1次シュッセル内閣)。その背景として、13年間にわたる社民党及び国民党の大連立政権下での癒着、バルカン半島での紛争激化に伴う外国人の増加や治安悪化に対する国民の不満等があった。

* ハイダー党首は、その政治姿勢が極右的と評されたため、自由党の政権入りに反発した他のEU14ヶ国は、オーストリアとの政治レベルでの二国間の公的接触を行わず、オーストリア要人の訪問も受け入れない等の二国間措置を発動したが、アハティサーリ・前フィンランド大統領をはじめとする3名の賢人グループによる人権状況等に関する調査結果を踏まえ、2000年9月に同措置を解除。

* 2002年9月、自由党内の対立を発端に連立政権が解体。同年11月の総選挙では、国民党が歴史的大勝利をおさめ、自由党は大敗、社民党は、36 年振りに第一党を国民党に譲った。社民党と自由党との間で連立政権の継続につき合意が成立し、2003年2月に第二次シュッセル内閣が発足した。

* 2004年4月、任期満了に伴う大統領選挙が行われ、フィッシャー国民議会第二議長(当時、社民党)が勝利し、7月8日に大統領に就任。

* 2005年4月、自由党内の路線対立によりハイダー元党首が右派新党「未来同盟」を結成し、連立政権における自由党の閣僚の全員が未来同盟に移った。所属議員の大部分を失った自由党に代わって、未来同盟が国民党との連立政権に参加することとなった。

* 2006年10月の国民議会選挙では、国民党が僅差で敗北し、社民党が第1党となった。連立政権交渉の結果、2007年1月に社民党のグーゼンバウアー党首を首相とする社民党・国民党の大連立政権が発足した。

* その後、社民党と国民党は、EU政策、年金政策、税制改革等、オーストリアの主要政策における方針の対立が鮮明となり、2008年7月に連立政権が解消、オーストリア国民議会(下院)が解散された。

* 国民議会の解散を受けて、2008年9月28日に選挙が実施された結果、社民党及び国民党は前回選挙から大きく議席を失い、自由党・未来同盟の両右派政党が躍進する結果となった。1ヵ月半に渡り連立政権交渉が行われた結果、世界金融危機への対応を優先し、その他政策課題も協力して取り組むことで、社民党及び国民党の連立政権合意がまとまり、12月2日にファイマン社民党党首を首相とする新政権が発足した。

* ファイマン首相は、2009年12月2日、政権成立1周年を記念して施政方針演説を行い、雇用対策に重点的に取り組んでいくことを表明している。

* 2010年4月25日、フィッシャー大統領の任期満了に伴う大統領選挙が行われ、現職のフィッシャー大統領が再選された。

2008年9月28日実施国民議会選挙結果 政党 議席数 増減
社民党 57 –11
国民党 51 –15
自由党 34 +13
未来同盟 21 +14
緑の党 20 –1

外交・国防

1.中立政策

 戦後の米英仏ソ4ヶ国による分割統治を経て、1955年に独立を回復し、同年10月、永世中立を宣言、国連への加盟も果たした。NATOには未だ非加盟だが、協力関係(PfP枠組み文書に署名)にある。EU(1995年に加盟)の共通外交安全保障政策(CFSP)は中立政策と両立するとの立場。
なお、2009年1月から国連安保理非常任理事国を務めている。

2.EU政策

 東西冷戦下では、政治体制の如何を問わず近隣諸国を中心とした二国間関係の緊密化を目指してきたが、1994年6月に行われたEU加盟を巡る国民投票において、賛成66.4%(投票率81.3%)にてEU加盟が承認され、1995年1月にEUに加盟し、西欧(EU)志向の政策をとるようになった。その後のEU東方拡大の流れを受け、近隣のEU候補加盟国との「地域的パートナーシップ」構想を打ち出すなど、EUの枠組みの中で中・東欧地域との結びつきを強化する傾向にある。2000年9月のEU14カ国による「二国間措置」が解除されてからはEU各国との要人往来も元通り行われるようになり、一時期のぎくしゃくした関係は見られなくなった。2004年5月には中・東欧諸国の多くがEU新規加盟を果たし、地理的にEUの中心を占めることとなった。地理的・歴史的に西バルカン諸国とのつながりが深く、西バルカン諸国のEU加盟に向けた働きかけを積極的に行っている。2006年前半はEU議長国を務めた(98年後半に続いて二度目)。

3.国際機関

 ウィーンは、ニューヨーク、ジュネーブに次ぐ「第三の国連都市」として、国際原子力機関(IAEA)や国連工業開発機関(UNIDO)等、国連諸機関の本部が置かれている他、OSCE事務局やOPEC本部を有する国際都市。冷戦期には東西両陣営の接点として、ケネディ-フルシチョフ会談(1961 年)等数々の国際交渉の舞台ともなった。

4.国際貢献

 国連平和維持活動に積極的に取り組む(ゴラン高原等8つのPKO約400人を派遣)他、コソボ支援(KFOR:約500人)やボスニア支援(EUFOR:約300人)を行っている。

5.イラク問題

 墺政府は、対イラク武力行使には、武力行使を明示的に容認する国連安保理決議の採択が必要との立場を維持し、連邦軍部隊の派遣や米軍等の領空通過の許可を行わなかった。但し、対イラク武力行使終了後は、少数の政府職員及び民間人を人道支援目的(イラク南部の病院再開プロジェクト)で派遣。

6.気候変動問題

 京都議定書では、EU全体の温室効果ガス排出量を2008年から2012年の期間内に1990年比マイナス8%とすることを義務づけており、これを踏まえたEU内の規定により、オーストリアは同期間内に、1990年比マイナス13%とする義務を負っている。
同目標達成のため、オーストリア政府は、①水力発電利用の更なる促進、②エコ電力法(再生可能エネルギーによる発電を行う事業者(エコ発電事業者)に対し、関係当局が市場価格を上回る価格で買取りを行うことで事業者を支援すること等を内容とするもの)の活用、③気候ファンドの設立などを行っている。

経済(出典:オーストリア統計局 2009年)

1.名目GDP総額 2,755億ユーロ

2.1人当たりGDP 29,300ユーロ

3.実質GDP成長率 -3.6%

4.消費者物価上昇率 0.4%

5.失業率 5.4%

6.主要産業 機械、金属加工、観光

7.貿易 輸出 942億ユーロ(自動車、電気製品、機械、鉄鋼等)

輸入 978億ユーロ(自動車、電気製品、機械、原油等)

8.通貨 ユーロ(2002年1月より流通開始、2010年1月現在、1ユーロ=約128円。)

9.財政(2009年連邦予算)

歳入 639億ユーロ
歳出 774億ユーロ

10.最近の経済概況

主要経済指標 2007年 2008年 2009年
名目GDP(単位:百万ユーロ) 270,837 283,880 275,538
1人当たりGDP(単位:ユーロ) 31,600 32,299 29,300
消費者物価上昇率(単位:%) 2.2 3.2 0.4
失業率(単位:%) 4.4 3.5 5.4
(出典:オーストリア統計局、オーストリア財務省、WIFO)

* 2007年までは、中・東欧諸国の経済成長を背景に、輸出増加及び堅調な設備投資等により高い経済成長を遂げた(実質GDP成長率:2006年 3.5%、2007年3.5%、出典:オーストリア統計局)。しかし、2008年秋以降、世界金融危機の影響により輸出や投資が落ち込み、2009年には 3.6%のマイナス成長となった。

* 金融危機後、自己資本不足に陥った金融機関もあったことから、政府は銀行への公的資金注入(150億ユーロ)、銀行間取引に対する政府保証(750億ユーロ)、預金保護に必要な政府保証(100億ユーロ)を内容とする一連の金融危機対策を実施した。

*  失業率は他の欧州諸国に比して低く、経済の好調により非常に低い水準で推移(2007年4.4%、2008年3.5%、出典:オーストリア統計局)してきたが、近年の経済悪化を受け人員削減の動きが強まっており、2009年は5.4%にまで上昇した。

*  一方で、オーストリアを訪れる外国人は年々増加しており、2009年の訪問者数は、延べ2,136万人(うち、日本人訪問者数は約20万人)であった。(出典:オーストリア統計局)

二国間関係

1.政治関係

* 伝統的に友好な関係。1869年に修好通商航海条約を締結して外交関係を樹立(当時はオーストリア=ハンガリー二重帝国)。また、1955年のオーストリアの永世中立国の宣言に対して我が国は1番最初に承認を行った。

* 修好130周年にあたった1999年に、クレスティル大統領(当時)が国賓として来日した。2002年7月には、天皇皇后両陛下がポーランド及びハンガリーを御訪問の途次お立寄りになった。2006年4月、シュッセル首相がEU議長国として訪日した際、小泉総理との間で二国間首脳会談を行った。また、2006年8月、眞子内親王殿下がホームステイのためウィーンに御旅行になった。

* 2009年は、両国の外交関係開設140周年に当たり、「日本オーストリア交流年2009」として両国で祝うこととなった。2009年1月には、シュピンデルエッガー外相、プラマー下院議長が相次いで訪日した。また、「日本オーストリア交流年2009」の日本側名誉総裁である秋篠宮殿下は、5月10日~13日、妃殿下と共にオーストリアを公式訪問された。

* 2009年9月30日~10月3日には、オーストリア側名誉総裁であるフィッシャー大統領が夫人とともに訪日し、天皇皇后両陛下との御会見及び午餐に出席し、鳩山総理との首脳会談、夕食会等を行った。

2.経済関係(財務省統計)

(1)対日貿易

 日本はオーストリアにとり、アジア有数の貿易相手国。2003年は日本の輸出超過であったが、2004年以降は輸入超過が続いている。オーストリア連邦産業院は対日輸出促進プログラム「サクセスフル・イン・ジャパン」の第2段階(1998年から2000年末まで)を実施、2001年から「ジャパン・ナウ」と題して対日輸出支援を行った。2004年より2006年まで墺・経済労働省の呼びかけによって墺・連邦産業院と共同で、商品輸出、サービス輸出、海外直接投資の促進を三本柱とする「go-international」政策を行った。

 日→墺(輸出):739億円(自動車、建設鉱山用機器等)(2009年)
 墺→日(輸入):1,263億円(機械類、自動車、木材、家具等)(2009年)

日・オーストリアの貿易の推移 (単位:億円)(括弧内は対前年度比増減(%))
  対オーストリア輸出 対オーストリア輸入 収支
2002年 1,084 (3.8) 1,145 (4.9) -61
2003年 1,342 (19.2) 1,219 (6.1) 123
2004年 1,356 (1.0) 1,413 (15.9) -57
2005年 1,187 (-12.5) 1,461 (3.3) -274
2006年 1,388(16.9) 1,792(22.7) -404
2007年 1,521(9.6) 1,885(5.2) -364
2008年 1,297(-14.7) 1,613(-14.4) -316
2009年 739(-43.0) 1,263(-21.7) -524
(出典:財務省貿易統計)

(2)投資

2008年の対オーストリア直接投資は30億円、対日直接投資は45億円。(出典:日銀「国際収支統計」)

3.文化関係

* 日本とオーストリアの長い交流の歴史を反映し、両国間の文化・芸術面での交流は活発である。

* 日本とオーストリアは、1869年10月18日、修好通商航海条約を締結したことから、2009年は日本とオーストリアの外交関係開設140周年の節目に当たる。2006年に行われた日本とオーストリアとの間の首脳会談において、両国は2009年を「日本オーストリア交流年2009」とすることを決定し、両国では演奏会や展覧会など200件以上の認定事業が行われた。なお、2009年はオーストリアを含むドナウ川流域4ヵ国(ハンガリー、ルーマニア、ブルガリア)との周年を記念した「日本・ドナウ交流年2009」も実施されている。

* 両国間の文化交流ではとりわけ音楽分野での交流が活発なことが特徴とされ、ウィーン国立音楽大学等において多くの日本人留学生が音楽を学ぶ他、小澤征爾氏(ウィーン国立歌劇場音楽監督)をはじめオーストリアを拠点として活動する日本人音楽家も多い。また、ウィーン少年合唱団、ウィーン国立歌劇場、ウィーン・フィル等の著名な楽団が毎年のように日本公演を実施している。

* アニメ・ブームの影響もあり、日本語を学習する学生の数は少なくない。オーストリアで唯一日本学科を有するウィーン大学東アジア研究所には、毎年 100名を超える学生が入学している。日本の伝統文化や武道等に関心を持つオーストリア人も少なくない。日本食もブームとなっている。

4.在留邦人数

2,188人(2009年10月)/在留邦人は、音楽関係者、音楽留学生、在ウィーンの国際機関職員及びその家族等が多いのが特徴。

5.在日当該国人数 在日オーストリア人:約416人(2009年7月)


さて、続きです。

首都ウィーンはモーツァルトやベートーヴェン(ドイツ人)が活躍した音楽の都。

そして、かのハプスブルク家が収集した絵画を収蔵する美術館が山ほどある芸術の都、素敵すぎる!!

私たちのウィーンでの一番の目的は、ハプスブルクコレクションの名画を見ること、そして誰もが知るオーストリアの画家クリムトの作品を見ること。

でもその前に、下記のとおりウィーン情報もお勉強(Wikipediaより)。

ウィーン(独: Wien, 巴:Wean(ヴェアン),仏: Vienne(ヴィエンヌ), 英: Vienna(ヴィエナ)) は、オーストリアの首都であり、人口は169万8957人(2009年12月31日)。都市単独で一つの連邦州であり、欧州有数のグローバル都市。クラシック音楽が盛んで「音楽の都」・「楽都」とも呼ばれます。

第1次世界大戦まではオーストリア=ハンガリー帝国の首都としてドイツを除く中東欧の大部分に君臨し、さらに19世紀後半まではドイツ連邦や神聖ローマ帝国を通じてドイツ民族全体の帝都でもありました(ただしドイツ全域に政治的支配権が及んでいたわけではない)。

ローマ時代、ウィーンはちょうど帝国の北の境界にあたる位置にあり、恐らくケルト語源でウィンドボナ(bonaはケルト語で集落・町)と呼ばれる宿営地が置かれ、これがウィーンの地名の起源と言われています。

中世にもドナウ河沿いの交易地として発展したウィーンが本格的な発展期を迎えたのは、オーストリアを治めていたバーベンベルク家が1155年にクロスターノイブルクからウィーンに都を移したことに起因します。

しかし、バーベンベルク家は13世紀半ばに断絶し、1278年よりオーストリア公となったハプスブルク家の支配下におかれます。

14世紀、建設公と称されたルドルフ4世のもとで、ウィーンは大きな発展を遂げ、この時代にシュテファン寺院(シュテファン大聖堂)やウィーン大学が建設されました。

やがてハプスブルク家は婚姻政策の成功により16世紀に入るとボヘミアやハンガリーを初めとする多くの王国を相続し、ドイツの神聖ローマ帝国の帝位を独占。16世紀前半にはカール5世のもとヨーロッパ最大のドイツ系帝国を築くに至りました。

一時はオスマン帝国による第一次ウィーン包囲(1529年)など、ヨーロッパ全体を震撼させる事件もあったが、ハプスブルク家のもとで帝都ウィーンでは華やかな貴族文化が栄えていきます。

1683年にもオスマン帝国による第二次ウィーン包囲を受けたものの撃退、17世紀末からは旧市街の王宮ホーフブルクに加え、離宮シェーンブルン宮殿が郊外(現在は市内)に造営されました。

18世紀末にはヨーゼフ2世によりウィーン総合病院が開設され、プラーター公園が一般市民に開放されるなど都市環境が改善されます。

19世紀半ばに産業革命を迎えたウィーンは農村からの人口流入により急激に人口が増加し、1869年に63万人であった人口は、1910年には203万を数え、当時のヨーロッパではウィーンは、ロンドン、パリ、ベルリンと並ぶ都会でした。1873年にはウィーン万国博覧会も開催されました。

皇帝フランツ・ヨーゼフ1世は自ら立案して大規模な都市改造を行い、市壁を撤去し環状の道路と置き換え、路面電車を導入するとともに、歴史主義的建造物やモニュメントを街路に面して配しました。現在のウィーン旧市街の外観はこの改造によっている。

オーストリア=ハンガリー帝国は多民族国家であり、支配民族であったドイツ人は帝国の人口5千万の25%あまりを占めるにすぎませんでした。

帝国各地からの人口流入により、ウィーンの街ではドイツ語・ハンガリー語・チェコ語・ポーランド語・イディッシュ語・ルーマニア語はもちろんのこと、ロマ語・イタリア語までヨーロッパのあらゆる言語を耳にすることができたと言われます。帝国各地からあらゆる民族出身の才能が集まり、ウィーン文化はその絶頂期を迎えたのです。

そして、1914年に始まった第一次世界大戦は1918年にドイツ帝国・オーストリア帝国の敗北をもって終了。ハプスブルク家のオーストリア帝国は解体し、チェコスロバキア、ハンガリー、ユーゴスラビア、ポーランドなどが次々と独立、ウィーンは経済的困窮に追い込まれます。

新しい共和国の首都となったウィーンでは社会主義系の市政が発足し、保守的な地方の農村部からは「赤いウィーン」と呼ばれて、両派の政治的確執は国政全体の不安定へとつながりました。

また、ほぼドイツ人だけの国となった新オーストリアで、東端に位置しなお濃厚な東欧色を残すウィーンは微妙な立場でした。このような時代をウィーンで過ごしたアドルフ・ヒトラーはやがてドイツで独裁者となり、ヒトラーは母国オーストリアをドイツに併合し、ウィーンは約700年ぶりに首都でなくなったのです。

1945年、第二次世界大戦でナチスは崩壊し、ウィーンは米英仏ソ四ヶ国の共同占領下に置かれました。

1955年にオーストリアは主権国家として独立を回復。旧ハプスブルク帝国の継承国家の殆どが共産圏に組み込まれる中で、オーストリアでは共産党は国民の支持を得られず、経済的には西側との関係を保ったまま永世中立国として歩むことになったのです。

オーストリア人のクルト・ヴァルトハイムは国連事務総長としてウィーンをニューヨーク、ジュネーヴにつぐ第三の国連都市にすることに成功し、ウィーンは数々の国際機関の所在地となりました。

しかし、鉄のカーテンにより、かつての後背地であった東欧を失ったウィーンの人口はゆるやかに減少を続けました。

そして1989年のベルリンの壁崩壊は、中欧におけるウィーンのもつ価値を蘇らせることになりました。150万人を切っていた人口は外国人の流入により再び増加傾向にあり、2050年ごろには再び200万人の大台を回復すると予想されています。これは2004年に中東欧8ヶ国がEUに加盟したのに加えて、2007年にはルーマニアとブルガリアが加盟、その後もクロアチアをはじめとするバルカン諸国の加盟が見込まれることによります。

ウィーンには中東欧の経済的中枢として多くの多国籍企業が進出するようになりましたが、旧共産圏諸国のインフラが整うにつれて、企業の拠点としてはプラハやブダペストなどとの競合も厳しくなっています。

ウィーン市は現在バイオテクノロジー産業の育成に注力しており、Vienna Biocenterなどを積極的に整備しています。他方、観光も相変わらずウィーンの重要産業となっています。

国際会議の開催件数では06年はパリを上回り世界1位でした。


さて、ウィーン到着後、バスターミナルからすぐ近くの駅からメトロに乗り、宿のあるAlser Strという駅までやって来ました。
ウィーンはメトロ、トラム、それにバスが縦横無尽に走っており、おまけに電光掲示板や路線図があちこちに設置されていて、言葉の分からない外国人でもとても乗りやすいように整備されています。
ただし運賃が1.8ユーロ(トラム、バス、メトロに乗換可、時間制限1時間)とちょっと高いのがたまにキズ。
1日券、3日券、回数券などを利用すると、かなり安く移動することができます。
私たちは『美術館入場料の割引』+『交通機関3日間乗り放題』がセットになった『ウィーンカード』18.5ユーロ/枚を購入しました。
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今晩からの宿『Thüringer Hof Hotel』
Booking.comでテレビ、バスルーム、朝食付、Wifi(1H:1ユーロ、24H:5ユーロ)
お値段は3泊分で220ユーロ、これまで滞在してきた宿に比べ格段に高い。けれどもここウィーンでは、この値段なら安いほうなのです 。。。
毎日のルームクリーニングもあるし、フルーツもつくし、朝食もゴージャスだし。とっても快適♪♪
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荷物をホテルに置いて早速出掛けます。まずはベタにシェーンブルン宮殿に行ってみることにしました。
ハプスブルク王朝の歴代君主が主に離宮として使用した宮殿で、現在、同宮殿と庭園群は世界遺産に登録されています。神聖ローマ皇帝マティアス(在位:1612年 - 1619年)が、ここでの狩猟時に美しい(schön)泉(Brunn)を発見したためにシェーンブルンと命名したと伝えられています。外壁は淡い黄色、テレジア・イエローというそうですが、彼女が好んでいた色というわけではありません。元々は皇帝フランツ・ヨーゼフ(マリア・テレジアの夫)が金を塗ろうとしたところ、マリア・テレジアが財政の状況を考慮し、黄金に近い黄色にしたそうです。建物は、あらゆる部屋を合計すると1,441室あり、両翼の端から端まで180mあり、正面右側翼には宮廷劇場があります。P9299730.jpg




宮殿への入場料は11.4ユーロ/名。(ウィーンカード割引後。入場料は、見学する範囲によって異なります。私たちはグランドツアーというコースを選択しました)
どこの国のツアーも、ここシェーンブルン宮殿へは必ず訪れます。こんなにゾロゾロと観光客でいっぱいです。
オーストリアで一番重要な観光資源で、年間入場数150万人。更に公園と動物園や行事での集客数520万人を合計すると年間には670万人が訪れるそうです。
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広いフランス式庭園を挟んで宮殿に向かい合う丘の上に見えるのは、グロリエッテという対プロイセン戦の勝利と戦没者の慰霊の為に立てたギリシャ建築の記念碑。
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宮殿内に入場すると豪華な部屋の連続。これはGreat Gallery
great gallery


Millions room
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Mirrors room
mirrors room



ここシェーンブルン宮殿で暮らした人々のうち、最も有名なのはマリア・テレジア。(以下Wikipediaより)

マリア・テレジア・フォン・エスターライヒ(Maria Theresiavon Österreich, 1717年5月13日 - 1780年11月29日)は、神聖ローマ皇帝フランツ1世シュテファンの皇后にして共同統治者、オーストリア大公(在位:1740年 - 1780年)、ハンガリー女王(在位:同じ)、ベーメン女王(在位:1743年 - 1780年)。

オーストリア系ハプスブルク家男系の最後の君主であり、彼女の子供たちの代からは正式には、夫の家名ロートリンゲン(ロレーヌ)との複合姓(二重姓)でハプスブルク=ロートリンゲン家となりました。

一般に「女帝」と呼ばれ、実態も女帝そのものであったが、実際には皇帝に即位したことはありません。

しかし夫である皇帝がフランス国境沿いの小国ロレーヌ公国(現フランス領)出身の養子的存在であり、ハプスブルク家領国内において実際の政治的権力をほとんど持たなかったこと、帝位は夫のものであったが、ハプスブルク家当主が継承してきた家督・オーストリア大公の位には彼女が就いていたこと、ハプスブルク家の領国を相続したのはマリア・テレジアであること、以上の理由により、彼女の肖像画には神聖ローマ皇帝(ハプスブルク家が世襲していた)の帝冠が添えられている場合が多く、当時としても、少なくとも領国内では「女帝」視されていたのです。

このためフランツは夫君、王配としてのイメージで捉えられ、マリア・テレジアの女帝的性格(実際は皇后であり女王)が広まったといえるのです。

偉大なるマリア・テレジアは、1717年、ハプスブルク家の神聖ローマ皇帝カール6世と皇后エリーザベト・クリスティーネの長女として誕生。

カール6世の最初の女子であり、両親は遥かヨルダン川の水で洗礼を受けさせたり、マリアツェル教会に黄金の子供像を奉納したりと大変かわいがりました。

彼女は母親譲りの輝く美貌を持ち、市民からの人気も高かったそうです。

1722年からウィーンへ留学に来ていた又従兄のロレーヌ公子フランツ・シュテファン(フランソワ・エティエンヌ)に恋します。その様子は「夜は彼のことを夢見、昼は女官達に彼のことを話している」とイギリス大使が記しているほどでした。

オイゲン公によりプロイセン王子フリードリヒ(後のフリードリヒ大王)との結婚案も浮上しますが、父カール6世もフランツのことを大変気に入っており、1736年の2月12日に2人は婚礼をあげました。当時の王族としては奇蹟にも近い恋愛結婚であったのです。夫との間に16人もの子女をもうけました。

それまでハプスブルク家はサリカ法典に基づく男系相続を定めていたが、彼女の兄が夭折して以後、カール6世に男子がいなかったことから、やがて次期後継者と目されるようになりました。

カール6世は国事勅書を出して国内および各国に、彼女のオーストリア・ボヘミア(ベーメン)・モラヴィア(メーレン)・ハンガリーなど、ハプスブルク家世襲領の相続を認めさせました。また、女子が皇帝になることはできなかったため、帝位には娘婿のロレーヌ公(1729年に父レオポルトから公位を継承した)フランツ・シュテファンが就くこととしたのです。しかしカール6世はそれでもなお男児(孫)の誕生を夢見ており、彼女に政治家としての教育は施すことはありませんでした。

しかし、その見通しの甘さはカール6世の死後すぐに露呈し、彼が死ぬと周辺諸国は娘の相続を認めず、領土を分割しようと攻め込んできました。これがオーストリア継承戦争(1740年 - 1748年)です。

プロイセン王フリードリヒ2世が最初に、自領の南にあるハプスブルク家領のシュレージエンに攻め込み、これに対し、マリア・テレジアはシュレージエン防衛の決意を明らかにし、第一次シュレージエン戦争、オーストリア・ザクセン戦争が勃発します。彼女は当時23歳(しかも第4子を妊娠中)であったが、1741
年3月13日ついに待望の男児ヨーゼフが誕生し、国内の士気は大いに上がります。

1741年6月25日にマリア・テレジアはまずハンガリー女王として即位しました。しかしその後、バイエルン選帝侯カール・アルブレヒトもオーストリアの敵に回ってしまいます。マリア・テレジアはバイエルンとの戦いを決意したものの、オーストリアは度重なる戦争のため戦費も援軍もすでになく、宮廷の重臣たちは冷ややかで窮地に追い込まれていました。そこで彼女はハンガリーへ乗り込み、9月11日ハンガリー議会で演説を行い、軍資金と兵力を獲得し、戦う態勢を整えたのです。

その後の戦況は二転三転し、一時は帝位もボヘミア王位もカール・アルブレヒト(皇帝カール7世)に奪われるものの、カールの死後に奪還し、1745年10月4日には夫フランツ・シュテファンを帝位に就けることに成功します。

しかし、プロイセンには軍隊の質などから敗北を喫し、1745年のドレスデンの和においてシュレージエンのプロイセン領有を承認。英仏間で戦争は続行され、最終的に1748年のアーヘンの和約(エクス・ラ・シャペル条約)によって終結した。

その後、マリア・テレジアはシュレージエンを奪還する目的で、ハウクヴィッツを登用しての内政改革やダウンによる軍改革を行いつつも、外交面においてはカウニッツを登用してフランスに接近します。

マクシミリアン1世以来長らくハプスブルク家と争ってきたフランスは、当時イギリスとも対立しており、プロイセンがイギリスと同盟したことが最終的なきっかけとなってオーストリアと同盟を結びます。これを外交革命といいます。

また、フランス王ルイ15世の愛妾ポンパドゥール夫人(政治上でも重要な地位を占めていた)、ロシアのエリザヴェータ女帝、そしてマリア・テレジアと3人の女性が反プロイセン包囲網を結成したことから「3枚のペチコート作戦」という呼称もあります。

1756年、プロイセンとオーストリアの間で再び戦争が勃発します。後に七年戦争と呼ばれるこの戦争は、前回と違ってフランスやロシアの同盟を得たオーストリアが優勢に戦争を進めるが、フリードリヒの粘りによって財政的負担が重くのしかかってきました。

1762年、ロシアでオーストリアとの同盟を推進してきたエリザヴェータ女帝が死去し、甥でフリードリヒの信奉者のピョートル3世が即位した結果、ロシアが最終的に戦争そのものから離脱、その後オーストリアが敗戦したことで、マリア・テレジアはシュレージエン奪還を諦めざるを得なくなりました。こうして1763年のフベルトゥスブルク条約で、シュレージエンのプロイセンによる領有が確定したのです。

彼女はオーストリアを強国にすべく、封建制度に縛られず様々な改革を行いました。

・小学校の新設
他国に先駆け、全土に均一の小学校を新設。義務教育を確立。全国で同内容の教科書が配布され、各地域それぞれの言語で教育が行われた。その結果国民の知的水準が大きく上昇。

・ 徴兵制度の改新
軍事行政委員が設置され、軍税徴収に関する等族の介入が排除された。1762年には軍事機構が宮廷軍事庁の下に統括され、宮廷軍事庁が最高決定機関となった。また、一般徴兵制が採用された。この徴兵制は全国民の無差別の兵役義務を承認しており(実際は身分差別あり)、農民出身であっても給料を得られるようになったことで、兵士達が安定した生活を保証され、オーストリアの軍事力は格段に上がった。

七年戦争後もマリア・テレジアによる改革は進められたのですが、この頃になると啓蒙主義的な官僚の勢いが強くなり、改革も次第に啓蒙主義的な色彩を帯びるようになります。衣装の自由化(1766年)やイエズス会の禁止(1773年)などがその代表的ですが、彼女自身は次第に保守化していきます。

1765年に死去した夫フランツに代わって帝位についた息子ヨーゼフ2世の急進的な改革姿勢とはしばしば意見が対立し、宰相カウニッツも彼女への不満を書き残しています。

そして1780年、死去。遺体は最愛の夫フランツと共に、ハプスブルク家の墓所であるカプチーナ礼拝堂に埋葬されました。

ちなみに、ハプスブルク家(ドイツ語: Haus Habsburg)というのは、現在のスイス北東部のライン川上流域に発祥したドイツ系の貴族の家系のことをいいます。

この地にはハビヒツブルク(Habichtsburg:「鷹の城」)古城が現存するが、この「ハビヒツブルク」が訛って「ハプスブルク」になったと考えられています。

古代ラテン人の有力貴族であるユリウス一門(カエサル家)の末裔を自称し、中世の血縁制度を利用した政略結婚により広大な領土を獲得、南ドイツを代表する大貴族に成長しました。

中世から20世紀初頭まで中部ヨーロッパで強大な勢力を誇り、オーストリア大公国、スペイン王国、ナポリ王国、トスカーナ大公国、ボヘミア王国、ハンガリー王国、オーストリア帝国(後にオーストリア=ハンガリー帝国)などの大公・国王・皇帝を輩出しました。

また、後半は形骸化していたとはいえ、ほぼドイツ全域を統べる神聖ローマ帝国(ドイツ帝国)の皇帝位を中世以来保持し、その解体後もオーストリアがドイツ連邦議長を独占したため、ビスマルクによる統一ドイツ帝国から除外されるまで形式的には全ドイツ人の君主だったのです。ヨーロッパ随一の名門王家と言われています。


ハプスブルク家当主・オーストリア大公マリア・テレジア、迫力がありますよね。
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そのほかには、この宮殿で暮らした有名人はマリー・アントワネット。この方は『ベルサイユの薔薇』であまりにも有名。
マリア・テレジアの末娘で、フランス王ルイ16世と結婚しフランス女王に即位するものの、フランス革命により処刑されました。アントワネットの肖像画はここでは2点見つけることができました。
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そしてもう1人はシシィの愛称で知られるエリーザベト・アマーリエ・オイゲーニエ(Elisabeth AmalieEugenie von Wittelsbach、1837年12月24日 - 1898年9月10日)。

彼女は、バイエルン王家であるヴィッテルスバッハ家傍系のバイエルン公マクシミリアンとバイエルン王女ルドヴィカの次女として生まれました。

身分の高い公爵家ではあるものの、王位継承権からも公務からも程遠い家庭のお姫様として、自由に伸び伸びと少女時代を過ごしたそうです。

そんな彼女の不幸は、1853年8月、姉ヘレーネと母方の従兄である皇帝フランツ・ヨーゼフ1世のお見合いにより始まるのです。なんと皇帝は姉ではなく、エリーザベトを見初めてしまい、1854年4月に彼女は16歳で結婚、オーストリア皇后となったのです。

意志に反して皇后になってしまったエリーザベトは、姑のゾフィー大公妃が取り仕切る厳格な宮廷に馴染むことが出来ませんでした。

四六時中姑の監視をうけ、子供達も姑に取り上げられ自分の手で養育することも叶わず、しだいに生活の大部分を旅行に費やし、ウィーンから避難し続けることとなります。

そして1898年9月、旅行中のジュネーヴ・レマン湖のほとりで、イタリア人の無政府主義者ルイジ・ルケーニに鋭く研ぎ澄まされた短剣のようなヤスリで心臓を刺されて殺害されました。

エリーザベトは皇帝フランツ・ヨーゼフとの結婚を後悔し続けたそうですが、一方の皇帝は常に妻を賛美し、生涯彼女を愛し続けたそうです。
当時のヨーロッパ宮廷一といわれたエリーザベドの美貌。身長172cmと背が高く、ウエスト50センチで体重は50キロという驚異の体形の持ち主でした。
痩身であることに執念を燃やし過酷なダイエットや美容方法でそれを維持していました。
宮殿で、彼女の美容室を見ることができましたが、健康器具あり、数々の美容グッズがあり、それはそれはマニアックでした。毎日数時間を費やして美容のためのお手入れをしたそうです。
一方夫である皇帝は、質素な生活を好み、毎朝4時に起床し、5時から夜遅くまで公務に没頭する真面目な君主だったそうです。
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宮殿をたっぷり見学した後は、庭園をお散歩。東西約1.2km、南北約1kmの規模があります。
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遠くに噴水が見えます。
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近づくとこんな変てこな噴水、なんだなんだこの噴水は??
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こんなリスが『餌くれよ~』と近寄ってきます。
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これでウィーン初日の午前の部終了です、ゼイゼイ。

ところで、ヒットラーってドイツ人だと思いがちですが、実はオーストリア人。あのシュワルツェネッガーもオーストリア人。

一方、ベートーベンはウィーンで活躍しましたが、ドイツ人です。
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さらばポーランド

2010年9月末、夜行バスでお隣の国オーストリアで移動したときのお話。

バスターナルのJordanという旅行会社で、Eurolineの国際バス・ウィーン行きのチケットを購入しました。

21:15出発のバス、お値段は143PLN/名。

無事チケットをゲットした後は、大きい荷物をコインロッカーに預けて街へレッツゴーー!!

いつもであれば、荷物を宿に預けるのですが、宿泊したホステルのレセプションにはほとんどスタッフが駐在していないし。。
受け取りに行ったときに不在だったら。。。なので今回はコインロッカーを利用しました。


今日もシトシト冷たい雨。秋だなぁ。
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中央広場にある聖マリア教会。1222年創建、ゴシックスタイルの教会です。
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旧市庁舎の塔。昔は建物もあったのですが、現在では塔部分しか残っていません。
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クラコフには、ダヴィンチのテンを抱く貴婦人があるのですが、訪問時は改装中で観れませんでした。これは次回のお楽しみだなぁ・・・。

街をぶらぶらした後、暇なのでナショナル・ミュージアムにでかけてみました。入場料10PLN/名。

1879年にオープンしたポーランド最古のミュージアムだそうです。

あまり期待していませんでしたが、昔の家具調度品や衣服の展示が豊富で、意外にもなかなか楽しめました。

訪れる人が少なくとても空いていて、ゆっくり落ち着いて見学できます。


閉館時間までミュージアムを堪能し、カフェへ。お会計は15.3PLN。
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夜の聖マリア教会。
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さて、バスターミナルに戻り荷物をピックアップしてバスの到着を待ちます。
今日はミニバスでクラコフから2時間ほど走り、途中の街でバスを乗り換えます。

30分遅れでこんなミニバス到着。今回のバスは座席番号が指定されていません。
こんなときはダリオが大きな荷物をトランクに預ける係、ハニコが席取り係。
外人達と熾烈な席取り合戦、これが非常~に燃えます。
そしてナイスポジションに2人分の席をゲット、やったね!!でも2時間後には新たな戦いが待っている!!
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そして大型バスに乗り換え。このバスは8割がた先客で占められていました。
しかし鼻息荒く闘ったすえ、無事に2人分の席をゲット!!
ホッと一安心、後は寝ればいいだけ。今回はEU内の移動のため、国境審査はなくラクちんです。
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目覚めたらオーストリアだね。

ヴェリチカ塩鉱 Wieliczka Salt Mine

近郊のヴェリチカ塩鉱 Wieliczka Salt Mineを見に行くことにしました。
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ヴェリチカ塩鉱は、13世紀から1996年まで採掘が続いていた歴史ある岩塩坑。
9層構造になっており、全長 300kmの坑道では、祭壇、岩塩で作られた彫刻作品の数々が随所に見られ、ユネスコの世界遺産に登録されています。
20人ほどのグループになり、ガイドさんの説明を受けながら3.5キロのコースを見学します。
所要時間は約2時間半(長すぎ・・・)、ツアー代金は65PLN/名。
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いつまで降り続けるのか分からなくなるくらいの階段を下りると、ツアーの始まりです。こんなマネキンで昔の様子が再現されています。
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馬の大切な労働力。
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こんな廊下が延々と続きます。
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地下では、馬糞や人糞はどう処理したのでしょう。気になります。
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私たちの歩くのは綺麗に整備された階段や廊下。
でも昔の鉱員は梯子をかけて、急な斜面を行き来していました。
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水も通っています。
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長い水路。
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塩でできたシャンデリア。
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地下の教会には最後の晩餐が描かれています。
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地上へ戻るのはエレベーターで。あの高さを昇るのはちょっとつらいもんね。
こんな長い廊下をどこまでも進んで、やっとエレベーターに辿り着きます。
長い廊下の途中にはところどころお土産屋があり商魂たくましい。
せっかくの塩鉱見学ですが、なんだか色とりどりのライトで装飾されていたり、余計な演出があったり、地下にレストランやたくさんのお土産物屋があったり、うーん、あまり好きな感じではなかったかな。。
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さて、バスに乗ってクラコウの中心地まで戻ってきました。
これは中央駅近くのデパート。まるで高島屋のように綺麗です。
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このデパートの地下には日本食売り場が。ガリ発見!
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カレー粉もおたふくソースも。
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今日もよく歩き回りました。

アウシュヴィッツ

2010年9月にアウシュヴィッツ強制収容所を訪問したときのお話です。

ポーランドにやって来た目的は負の世界遺産『強制収容所』を訪れること。

シトシトと小雨が降るクラコウ2日目、重い気持ちで行って参りました。

施設へはバスが頻発していて1時間半程で到着します。
辺りはひっそりと静か。
身震いするほど今日は寒い、けれど、ここを訪れるのにはこんな気候が相応しいのかもしれない。
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以下Wikipediaより。

ホロコーストの象徴と言われる「アウシュヴィッツ強制収容所」とは、1940~1945年にかけて現在のポーランド南部オシフィエンチム市郊外につくられた、強制的な収容が可能な施設群(List of subcamps of Auschwitzに一覧)の総称である。

ソ連への領土拡張をも視野に入れた「東部ヨーロッパ地域の植民計画」を推し進め、併せて占領地での労働力確保および民族浄化のモデル施設として建設、その規模を拡大させていった。

地政学的には「ヨーロッパの中心に位置する」「鉄道の接続が良い」「工業に欠かせない炭鉱や石灰の産地が隣接する」「もともと軍馬の調教場であり、広い土地の確保が容易」など、広範なドイツ占領下および関係の国々から膨大な数の労働力を集め、戦争遂行に欠かせない物資の生産を行うのに適していると言える。

また、次第に顕著となったアーリア人至上主義に基づいた「アーリア人以外をドイツに入国させない」といった政策が国内の収容所の閉鎖を推し進め、ポーランドに大規模な強制収容所を建設する要因にもなった。

労働力確保の一方で、労働に適さない女性・子供・老人、さらには劣等民族を処分する「絶滅収容所」としての機能も併せ持つ。

一説には「強制収容所到着直後の選別で、70~75%がなんら記録も残されないまま即刻ガス室に送り込まれた」とされており、このため正確な総数の把握は現在にいたってもできていない。

収容されたのは、ユダヤ人、政治犯、ロマ・シンティ(ジプシー)、精神障害者、身体障害者、同性愛者、捕虜、聖職者、さらにはこれらを匿った者など。その出身国は28に及ぶ。

ドイツ本国の強制収容所閉鎖による流入や、1941年を境にして顕著になった強引な労働力確保(強制連行)により規模を拡大。ピーク時の1943年にはアウシュヴィッツ全体で14万人が収容されている。

たとえ労働力として認められ、収容されたとしても多くは使い捨てであり、非常に過酷な労働を強いられた。理由として、

・ナチスが掲げるアーリア人による理想郷建設における諸問題(ユダヤ人問題など)の解決策が確立されるまで、厳しい労働や懲罰によって社会的不適合者や劣等種族が淘汰されることは、前段階における解決の一手段として捉えられていたこと。
・領土拡張が順調に進んでいる間は労働力は豊富にあり、個々の労働者の再生産(十分な栄養と休養をとらせるなど)は一切考慮されなかったこと。
・1941年末の東部戦線の停滞に端を発した危急の生産体制拡大の必要性と、戦災に見舞われたドイツの戦後復興および壮麗な都市建設計画など、戦中と戦後を見越した需要に対し、膨大な労働力を充てる必要があったこと

などが挙げられる。

併せて、劣悪な住環境や食糧事情、蔓延する伝染病、過酷懲罰や解放直前に数次にわたって行われた他の収容所への移送の結果、9割以上が命を落としたとされる。

生存は、1945年1月の第一強制収容所解放時に取り残されていた者と、解放間際に他の収容所に移送されるなどした者を合せても50,000人程度だったと言われている。

すべての強制収容所はヒットラーによってSSの下に集約されており、SSが企業母体となる400以上にも上るレンガ工場はもとより、1941・1942年末以降の軍需産業も体系化された強制収容所の労働力を積極的に活用。敗戦後は、SSのみならず多くの企業が「人道に対する罪」を理由に連合国などによって裁かれた。


収容所の入り口。『働けば自由になれる』と書いてあります。(実際は解放されることはありませんでした。)
門のデザインがちょっと洒落ているところが、またこ憎たらしさを増します。
なお、収容所の入場料は無料です。
自分達の悲惨な歴史を世界に発信するために無料公開にして、運営資金は世界に散っているユダヤ人から寄付されているのだろうなぁ。。。
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敷地は二重に張り巡らされた高圧電流の通ったフェンスで囲まれています。
あまりの過酷な日々に耐え切れず、このフェンスを使って自殺をした収容人もいたそうです。
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各地からユダヤ人たちを乗せた電車が到着すると、彼らはプラットフォームに降ろされ、何か役に立つ知識や技術を持っているか労働に耐えうる者とそうでない者に選別されました。労働力にならないとされた者達は『入浴させる』と騙されて、衣服を脱がされてガス室送りになりました。
女性と子供の大半は、到着後すぐにガス室送りにされたそうです。
残った者は男女に分別されて、下のような建物に収容されました。
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劣悪な衛生状態で、疥癬、赤痢などの伝染病がはびこっていました。
食事は薄い水のようなスープと僅かのパン、コーヒーと呼ばれた泥のような飲み物だけでした。
重労働に対してカロリー不足なのはあきらかで、収容者の大半は飢えて亡くなったとのこと。
解放まで生き残った女性の1人は、元はふくよかな体型だったのですが30kgほどにまでやせこけてしまった写真を見ることが出来ます。
皮が骨に張り付き、ミイラのような身体となっていました。
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収容所に到着すると、三方向から写真を撮られ、ファイルに登録されました。
ファイリングの几帳面さがいかにもドイツ人らしく、こ憎たらしい。
収容可能人数を越える頃になると、電車が到着すると、選別されることも、ファイルに登録されることなく、全員が即、ガス室送りにされることも多かったそうです。
そのために収容所で亡くなった正確な人数がいまだもって把握できないのです。
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東ヨーロッパへの移住で新しい土地で生活できる、と騙されてやって来たユダヤ人も多かったそうです。
彼らはこれからも人生・生活が続くものだと信じていたので、大きな旅行かばんにありったけの財産をつめて、鍋や食器、ブラシや靴磨きセットなど日用品の持参して、ここにやってきたのです。
この収容所では、到着したときのユダヤ人達を撮った写真を何枚か見ることができます。
男性はきっちりとスーツ、ネクタイ、コートを着用し、帽子を被り旅行鞄を手にしています。
女性はやはり綺麗な洋服にコートを着ています。
まるでお洒落をして外出するようなファッションで収容所に到着しているのです。
自分が辿り着いた場所の正体を知ったときの衝撃はどれだけのものだったんだろう。
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これらの犠牲者の持参品は、ドイツが劣勢になり収容所がソ連に解放される直前、ナチスが証拠隠しのために焼却処理しましたが、あまりにもその量が膨大だったために処理が追いつかず、私たちはこのように残っているものを目にすることができるのだそうです。

目の前にうずたかくつまれた品々が、無言のままに語りかけてきます。
ブラシの山、タライの山、カバンの山、ガス室送りになる際に脱がされた靴の山。
私は靴の山の前で動けなくなりました。
大足の男性のブーツ、ひょろっと細い運動靴、ヒールの高いオシャレな靴、明るい色合いのパンプス、子供靴。
今では、おおくの見学者を迎え入れるために、きれいに整備されたこの収容所の中にいると、本当の目的に使われていた頃とはかけ離れていて、たくさんの人々が虐殺された空間にいるように感じなくなるときがあるのですが、人の足の形に添った靴は、ここで物のように処理された人々の1人1人がそれぞれ違う人間で、人生があった事を強烈に語りかけてきました。

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これは死の壁。奥の壁の前で銃殺刑が行なわれました。
右側の建物は、地下が牢獄になっており、この一室でカトリックの聖人コルベ神父が亡くなりました。
コルベ神父はユダヤ人ではなくポーランド人、でもナチスに批判的な言動をしたということで収容されていたのです。
1941年7月末、脱走者が出たことで、無作為に選ばれる10人が連帯責任の餓死刑に処せられることになりました。
囚人たちは番号で呼ばれていったのですが、フランツェク・ガイオニチェクというポーランド人軍曹が「私には妻子がいる」と叫びました。この声を聞いたとき、そこにいたコルベは「私が彼の身代わりになります、私はカトリック司祭で妻も子もいませんから」と申し出ました。
責任者であったルドルフ・フェルディナント・ヘスは、この申し出を許可、コルベと9人の囚人が地下牢の餓死室に押し込められました。
2週間後、コルベを含む4人はまだ息がありましたが、フェノールを注射されて殺害されました。
助けれれたガイオニチェクは生き残り、戦後世界各地で講演を続け、死去するその時までそれを行いました。またコルベ神父の列聖式典にも参加しました。
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ガス室、殺害に使用された薬品の空き缶。
ガス室には偽のシャワーノズルまで設置してあったそうです。
一説には、建物の密閉性や構造を検証した結果、この程度の設備では大量に人間を処理するのは困難で、ユダヤ人が自分達へ有利な世論を誘導するために、ナチスの罪を喧伝した『ガス室捏造疑惑』が存在しているそうです。
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写真撮影が禁止されていましたが(撮影する気も起こりませんでしたが・・・・)、
収容者の死体からとれる金歯など金目のものだけでなく、利用できるものは全て利用したようで、人の毛髪で織られた布がありました。
身の毛もよだつ話ですが、当時のドイツSS兵は、どのような思考回路でユダヤ人を処理し続けていたのでしょうか。。。。。
下等人種に対して何も感じないようになっていたのだと思いますが、環境次第で人はどうとでもなるものだと、教育の重要性を再認識しました。


人間は周囲の環境に影響されずにはいられませんから、その時代の熱狂にたやすく支配されてしまうのも仕方が無いのかもしれません。
そういう私たち自身も、自分達が知らないうちにマインドコントロールされていない、と言い切れ無いのではないでしょうか。

TVやネットなど、誰もが等しく情報にアクセスできる時代のように見えて、その実、誰かに都合の悪い部分は隠されて、耳障りのよいフレーズに置き換えられ、本当に大事なことは届かないようにされているのかもしれません。


今日はなんとも言いようもなくずっしりと重~い気持ちで帰ってきました。

クラコウ Kracow

長い長い国境を越えて、国際バスは7:43に無事クラコウKracowに到着しました。

バスターミナルはとても広く綺麗。道路も整然としているし流石EU!!
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ここでちょっとポーランド情報をどうぞ。(外務所HPより)

国名:ポーランド共和国(Republic of Poland)

一般事情

1.面積 32.3万平方キロメートル(日本の約5分の4、日本から九州、四国を引いた程度)

2.人口 約3,814万人(2008年)

3.首都 ワルシャワ(約171万人)

4.民族 ポーランド人(人口の約97%)

5.言語 ポーランド語

6.宗教 カトリック(人口の約90%)

7.国祭日 11月11日(独立記念日)

8.略史

年月略史
966年ピアスト朝、キリスト教を受容
1386年ヤギエウォ王朝の成立
1573年選挙王朝
1795年第3次分割によりポーランド国家消滅
1918年独立回復
1945年7月国民統一政府の樹立
1989年9月非社会主義政権の成立
1999年3月NATO加盟
2004年5月EU加盟

・10世紀に建国。15~17世紀には東欧の大国。18世紀末には3度にわたり、ロシア、プロシア、オーストリアの隣接三国に分割され、第一次大戦終了までの123年間世界地図から姿を消す。

・第二次大戦ではソ連とドイツに分割占領された。大戦での犠牲者は、総人口の5分の1を数え、世界最高の比率。
大戦後は、ソ連圏にくみ込まれたが、「連帯」運動(1980年代)など自由化運動が活発で、東欧諸国の民主化運動をリードした。1989年9月、旧ソ連圏で最初の非社会主義政権が発足した。

・「欧州への回帰」を目標に、1999年3月にNATO加盟、2004年5月にはEU加盟を果たした。

政治体制・内政


1.政体 共和制

2.元首 ブロニスワフ・コモロフスキ(Bronislaw Komorowski)大統領

3.議会 二院制(下院460議席、上院100議席、両院とも任期4年)

4.政府

(1)首相名 ドナルド・トゥスク(Donald Tusk)
(2)外相名 ラドスワフ・シコルスキ(Radoslaw Sikorski)

5.内政

(1)1989年9月にマゾビエツキ首相の非社会主義政権が成立して以来、大統領及び議会の自由選挙が実施され、民主主義が定着。2007年10月に行われた総選挙までは、「連帯」の流れを汲む中道右派政党と旧共産党系の左派政党が交互に政権についた。

(2)2007年10月21日に行われた総選挙(上下両院)では、「法と正義」(PiS、中道右派)と同じく「連帯」の流れを汲む最大野党「市民プラットフォーム」(PO)が勝利。POは、農民党との連立に合意し、同年11月16日、POのトゥスク首相を首班とする連立政権を発足させた。2009年6月7日に実施された欧州議会選挙においても、同連立政権が過半数の票を得た。

(3)2010年4月10日、カティンの森70周年追悼式典に出席のため、カティンに向かっていた政府専用機がロシアのスモレンスク近郊で墜落、カチンスキ大統領夫妻等乗員乗客96名全員が死亡した。新大統領選出のための選挙は6月20日に実施されたが、第1回投票で決着が付かず、7月4日の決選投票により、与党POのコモロフスキ下院議長(53%)が、死亡した前大統領の双子の兄であるヤロスワフ・カチンスキPiS党首(47%)に勝利した。

外交・国防


1.外交

(1)「欧州への統合」を目標に1999年3月にNATO加盟、2004年5月にEU加盟を果たした。WTOには1995年6月、OECDには1996年11月に正式加盟。

(2)トゥスク政権は、独、露等の課題を抱える国とも対話を通じて関係を構築していくとの姿勢。2011年後半のEU議長国就任への準備を重要課題の一つに挙げ、前向きな対欧州外交を展開すると共に、2009年5月に立ち上げられたEU東方パートナーシップの形成に主導的役割を果たすなど、東方政策に力を入れている。

(3)ポーランドは、米国との関係を安全保障の観点から重視。2008年8月にポーランドと米国が基本協定に署名した米国ミサイル防衛システムのポーランド国内への配備については、2009年9月にオバマ政権は見直しを発表したが、ポーランドは新計画においても関与を継続。2018年頃同システムがポーランドに配備される予定。

(4)ポーランドは、国際貢献にも積極的であり、NATO及びEUの枠組等で、アフガニスタン、コソボ、ボスニア・ヘルツェゴビナに人員を派遣。なお、2010年春からのアフガニスタン増派兵力確保のため、2009年末に国連任務を終了している。

2.軍事力

(1)予算 約82.2億ドル(対GDP比1.95%)(2010年)
(2)兵力 総兵力約10万人(2010年)
(3)徴兵制は2009年末で廃止

経済(単位 米ドル)

1.主要産業 食品、自動車、金属、化学製品、燃料

2.GDP 約4,302億ドル(2009年)

3.一人当たりGDP 約11,288ドル(2009年)

4.経済成長率 1.7%(2009年)

5.物価上昇率 3.5%(2009年)

6.失業率 11.9%(2009年)

7.総貿易額

(1)輸出 1,719億ドル(2008年)
(2)輸入 2,105億ドル(2008年)

8.主要貿易品目

(1)輸出 機械機器類、輸送機械、金属製品
(2)輸入 機械機器類、鉱物性燃料、金属製品

9.主要貿易相手国

(1)輸出 独、伊、仏(EUが約8割)
(2)輸入 独、露、中、伊(EUが約6割)

10.通貨 ズロチ(ZL)

11.為替レート 1ZL=約26円(2010年6月)

12.経済概況

(1)1989年の改革後、緊縮政策の導入、旧コメコン市場の喪失などから生産が低迷し、1991-1992年で鉱工業生産は▲35%と急落した。しかし、民間部門の振興、対EU諸国貿易の活性化等により、1992年以後の景気は好調で、GDP成長率は外国直接投資などを原動力に1998年-2000年にかけて4%台を記録。2001年に入り、内需の低迷と世界経済の減速を背景に1%台と減速したが、2003年以降は、好調な輸出と個人消費等を背景に回復し、2006年は6.1%、2007年は6.7%のGDP成長率を記録した。2008年以降は世界金融・経済危機の影響を受け、2008年は4.8%、2009年は1.7%に鈍化したものの、欧州全体がマイナス成長にある中、2009年がプラス成長の唯一の国。

(2)インフレ率は、2000年まで10%前後という高い水準で推移していたが、2006年までは1~4%程度で推移した。2007年から2008年初めにかけては世界的なエネルギー及び食糧価格の高騰をうけて、インフレ圧力が高まった。
(3)依然として一人あたりの所得はEU現加盟国の半分程度の水準であり、今後はEU補助金の有効活用が経済成長のポイント。その他、課題として財政赤字削減、道路等のインフラ整備などが挙げられる。

(4)トゥスク政権は、2008年10月、ユーロ導入目標時期を2012年1月1日とするユーロ導入に関する工程表を閣議決定したものの、2008年の金融危機の影響を受けて、導入目標を放棄。

経済協力


1.日本の援助実績(1989~2008年)

(1)概略
日本は、1989年以降、市場経済及び民主主義への円滑な移行に資するため、技術協力を中心に財政、金融、産業、経済、貿易振興等の諸政策の立案支援をはじめ、生産性向上、品質管理等の企業育成支援や、環境保全等、多岐にわたる支援を行ってきた。ポーランドへのODA支援は同国のEU加盟等を踏まえ終了している。

(2)日本の対ポーランド経済協力実績(実施年度1989~2008年)
(イ)有償資金協力 213.92億円
(ロ)無償資金協力 40.36億円
(ハ)技術協力 89.71億円

二国間関係


1.政治関係

両国関係は伝統的に良好。2007年5月に麻生外務大臣のポーランド訪問や、2008年10月のシコルスキ外務大臣の訪日、同年12月のカチンスキ大統領の訪日及びボルセヴィチ上院議長の訪日など要人往来も活発に行われている。

2.経済関係

(1)日本の対ポーランド貿易(2009年)

(イ)総貿易額 1,643億円
輸出 1,296億円
輸入 347億円
(ロ)主要品目
輸出 自動車、自動車部品、映像機器等
輸入 自動車部品、人造黒鉛

(2)進出日系企業数:約254社(2009年10月現在)

3.文化関係

(1)概略
両国国民の互いの文化に対する高い関心を背景として、文化交流は活発。1994年11月、クラクフ市に日本の浮世絵(約5000点)等を展示した日本美術技術センターが開館。現在の名称は「日本美術技術博物館」。2007年は日・ポーランド国交回復50周年であり、日本とポーランド双方で様々な記念行事が行われた。2009年は日・ポーランド国交樹立90周年。

(2)文化無償協力
〈ポーランドに対する文化無償協力実績〉
年度対象機関供与機材
3 オペラ劇場映像機材及び楽器
4 ワルシャワ大学LL機材・視聴覚機材
5 柔道連盟柔道器材
6 ショパン高等音楽院楽器
6 アダム・ミツキエヴィッチ大学LL機材・視聴覚機材
7 ヤギェウォ大学LL機材・視聴覚機材
8 国立フィルハーモニー楽器
9 ポーランドテレビ局テレビ番組ソフト
10 クラクフ国立博物館視聴覚機材
11 ワルシャワ・ドラマティック劇場音響機材・楽器
12 ワルシャワ国立図書館視聴覚機材
13 日本美術技術センター視聴覚機材
14 ニコラス・コペルニクス大学LL機材・視聴覚機材
15 なしなし
16 ワルシャワ大学図書館視聴覚機材

4.在留邦人数 約1,299名(2009年10月現在)

5.在日当該国人数 約1,000名(2009年12月末現在)

続いてクラコウ情報をどうぞ。

クラコウは、ポーランド南部にある都市で、マウォポルスカ県の県都。人口は約75万で、これはワルシャワ、ウッチに続く第3の規模。

ポーランドで最も歴史ある都市の一つであり、17世紀初頭にワルシャワに遷都するまではクラコウがポーランド王国の首都であり、ポーランドの工業、文化の主要な中心地でした。

ヴィスワ川の上流に位置し、市街地はヴァヴェル城を中心としてヴィスワ川両岸に広がっています。

クラコウの歴史は、ポーランド王国の成立以前にまでさかのぼり、伝承によれば8世紀には成立していたと推測されます。

10世紀にはイベリアのウマイヤ朝イスラム帝国のユダヤ人記録家イブン・ヤクブがこの地方を訪れ、ボヘミアの版図にある交易都市としてクラコウに言及しています。

その後正式にクラコウにおけるポーランド王国(ピアスト朝)の主権が確立し、首都機能がポズナンからクラコウに移ってからはポーランド最大の都市として発展していったが、13世紀にモンゴルの襲撃でいったん破壊されてしまいました。

しかし復興は順調に進み、14世紀よりクラコウは最盛期を迎え、1364年、カジミェシュ3世によってヤギェウォ大学(クラコウ大学 - コペルニクスが大学生として通った大学として知られる。ポーランド最古の大学)が創設され、それからも織物取引所、聖マリア教会などが建てられていきます。

そして西欧での迫害を逃れてやってきた何万人ものユダヤ人が喜んで受け入れられました。

しかし、16世紀より徐々に王国の中心はワルシャワへと移行していき、17世紀初頭には正式に都がクラコウからワルシャワへと遷されました。

16世紀後半にヤギェウォ朝が断絶すると、ポーランドでは貴族らによって運営される身分制議会(セイム)の勢力が強まり、王権の弱体化が進みます。

そうした中、17世紀前半の三十年戦争、18世紀前半の大北方戦争に巻き込まれ国土は荒廃し、クラコウもこの混乱に巻き込まれてしまいました。

18世紀後半には3度のポーランド分割によって国家自体が消滅し、クラコウはオーストリア領ガリツィアへと組み込まれることになります。

1815年のウィーン議定書で、クラコウは自治共和国の地位を認められました(クラコウ共和国)。

しかし、オーストリアによる干渉は強まる一方であり、1846年2月にクラコウ市民が反オーストリア蜂起を起こします(クラコウ蜂起)。
蜂起は鎮圧され、共和国はオーストリアに併合されクラコウ大公国となり自治特権は失われるが、この蜂起は2年後に起こる1848年革命の先駆的運動とも評価されます。

19世紀後半から20世紀初頭にかけて、ポーランド文化振興の中心地として重要な役割を果たしました。

そして第一次世界大戦を経てポーランドが独立を果たし、ポーランド領となった。

第二次世界大戦に際してドイツ軍の占領を受けます。ポーランド総督に任命されたハンス・フランクはクラコウのヴァヴェル城からポーランド総督府の統治にあたりますが、1945年にソ連軍によって解放されます。

現在でも街のカジミェシュ地区に多くのシナゴーグがみられるように、中世よりユダヤ人コミュニティーが存在しました。

14世紀のカジミェシュ大王は最も積極的にユダヤ人を受け入れ、当時はヴィスワ川の中洲だった、河川を利用した運送に適した広い土地を彼らの自治都市として提供したのです。

このカジミェシュ地区はゲットーとは異なり、ユダヤ人が閉じ込められたわけではなく基本的にユダヤ人であってもクラコウではどこでも自由に住むことができたが、ユダヤ人たち自身による行政の自治権が与えられたのがこの地区だということである(第二次世界大戦でドイツによる占領政策が行われるまで、ポーランドにはゲットーというものが存在しなかった)。

後にユダヤ人たちが豊かになるにつれて自治区は対岸にも広がっていきました。

第二次世界大戦中は占領者のナチス・ドイツにより、カジミェシュ地区から見てヴィスワ川対岸にあるポドグジェ地区にクラコウ・ゲットーが創設されます。

オスカー・シンドラー(映画「シンドラーのリスト」の題材となった人物)が経営していた工場は、カジミェシュ地区の南東にあり、クラコウ・ゲットーのユダヤ人を労働者として雇っていました(工場は現在も現存)。

工場のユダヤ人労働者が強制収容所に連行されようという時、彼らを連れ戻してモラヴィア地方のブルニェネツにある工場へと送ったのです。

現代のカジミェシュ地区では毎年7月初旬に大規模なユダヤ文化祭り「シャローム」が開催され、アメリカやイスラエルなど、ポーランドから移住していったユダヤ教徒もやってきて様々な催しを繰り広げ、ユダヤ教徒もキリスト教徒もみな集まって歌ったり踊ったり食べたり飲んだりと、和気あいあいの賑わいとなるそうです。


さて、続きです。クラコウの宿はネットで予約をしていた『Blue Hostel』。
WIFI、共同バストイレ、共同キッチンで120PLN/室。
1ポーランドズウォティPLN = 28.67円(2010.9月現在)です。
P9269477.jpg



このホステルにチェックインし、部屋に落ち着くまでにはちょっとした事件がありました。。。

というのは、、、

ホステルの前に到着したものの、建物に入るドアは閉まっていてベルを鳴らしても誰も返事をしてくれないのです、おかしいなぁ。

しばらく待っていると、ホステルに滞在しているお客さんがたまたま出て来たので、建物内に入ることができました。

ところが建物の踊り場に入ってみたところで、レセプションのある部屋のドアにもしっかり鍵がかかっていたのです。

困ったな~と部屋の前で待っていると、またもや宿泊客がたまたま部屋を出入りするところだったので、便乗して私たちも侵入。ソファで宿のマネージャーを待つことにしました。

待つこと十数分後、宿の男性スタッフUが帰ってきました。
でもなんか疲れたようにふらふらしていて様子がおかしい。
手にはビール缶(大)が3本入ったビニール袋をブラブラさせて、酔っ払っている?

私たちがチェックインしたい旨を伝えると、

U:ごめんなさい、本当にごめんなさい。私のこと待ったでしょ?ネェ、すごく待たせた?ごめんなさいねぇ。お詫びにこのビールを1本ご馳走するわぁ

と朝っぱらからウェルカムビール・・・酔っとるな~ しかもなんか口調がおかしい。

そしてヨロヨロを私たちのほうに歩いてきて、ナヨっと隣に座り込みました。

U:私・・・ゲイなのぉ。(えーーー!!!)今日は日曜日だから、お休みだわぁって思って、たくさん飲んじゃったのよぉ。だって、飲まずにはいられないじゃないのよ。。。10年間付き合ってた彼氏が、昨日私の元を去っちゃったんですもの。(それって自棄酒?)

と言って、ホロホロと涙を流して泣きはじめたのです。

U:ごめんなさいねぇ。私は大丈夫よ!!ここはね、私が経営するホステルよ♪

と空元気を出してみるものの、すぐ涙がホロリ。

U:あぁぁぁぁーーー

とシャナリと斜めに体を傾かせ(いわゆるオカマポーズ)、また泣きはじめました。

私達が励ますものの、一向に泣き止みません。

空元気を出しては、すぐヨヨヨと泣き崩れること数回。

しばらくUに付き合いましたが、夜行バスの旅で相当疲れていた私達、いいかげん鍵を貰い部屋で休むことにしました。

ベロンベロンに酔っ払ったUは動けないので、レセプションの鍵置きから自分で取ってくれと言います。

指定された鍵を取り、部屋を開けるとそこには先客の荷物が散らばっている。。。なんじゃこれ。

Uに部屋を取り替えてもらい、これでヨシっと別の部屋を開けると今度は女性が寝ていた・・オイオイ。

しっかりしてくれ。

3度目の正直で、3部屋目の部屋は誰もいない個室。やれやれやっと落ち着けます。

それにしてもオカマの仕草って万国共通だね。

ちなみにこの二日後、Uに『私達のこと覚えている?』と聞いたところ、全然覚えていない様子でした。

なんだったんだ~~!


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