Vagabond Shoes

Now we are in Bali, Indonesia. 2009年末から旅に出ました。

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虫歯治療終了の巻

ダリオの最後の歯科通院は明日、本来だったら周辺国に出発しているはずだったので、今夜の宿は予約していません・・・今のアパートはフル、宿を探さなければ!

ネットで今夜のアパートを予約し、ヤレヤレと朝食の準備。
昨日市場で購入した600グラムのベーコンにウットリ。
そしてせっかくなので備え付けの食器洗浄器を使ってみたところ・・・洗剤を入れすぎて泡が吹き出し大変なことに(笑)
食器洗浄器って、時間がかかり電気代がもったいないような気がするのだけど、日本製のものはもっとエコなのかな。
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そして宿を移動。今夜お世話になるのはすぐ近所のApartment Aria 28EUR/ダブル。
テレビ、キッチン、バスタブ付バスルーム、超高速WIFI付。とても快適アパートなのにこのお手ごろ価格!
管理人アニタとは、約束の14時にアパートで待ち合わせ。
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ロフトに寝室。部屋全体がリーズナブルなIKEAのファブリックで、かわいらしくまとまっています。
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今日は何も用事ないね~と、ペペロンチーニを食べてビールをグビグビ。
それからソーセージを焼いてみたり。
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厚切りベーコンをこんがり焼いたり、お惣菜屋で買ったパテを食べたり。
ピクルスをコリコリとかじったり。
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スターウォーズ(アナキン・スカイウォーカーが悪人になる編)を鑑賞しながら、野菜スープを食べたり。
ヨーダって、とても強いお師匠様だったんだね、初めて知ったよ。
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そして食べてばっかりの快適アパートで一夜を過ごし翌日、ダリオの最期の歯科治療の日です。

嬉しいな~、でもその前にやらなきゃいけないことがあるのです。

ダリオの治療予約は16時、今夜はどこかに泊まらないといけないというのに、快適アパートAria Apartmentはフルなのです。

以前泊まったアンダンテホステルが1泊だけ空き室があるので、移動開始。

ハンガリー滞在が思ったより長くなったので、毎日渡り鳥のように宿を移動しています。

こちらが今晩の部屋。
ピンクのカーテンで可愛らしい雰囲気、35EUR/ダブルです。(前回はハイシーズン料金で40EUR)
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ランチは今日もやっぱり中華、ブダペストには中華料理屋さんがたくさんあります。
このボリュームで、1人300円もしません。
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ランチの後、ダリオは歯医者に行き、無事にレジンでフィリングをしてもらい治療完了。

費用総額は、根管治療が20000HUF、レジンでのフィリングが14000HUF、合計34000HUFでした。(クレジット可)

ちなみにエジプトでは、根管治療と根の充填に1200EGP、クラウンが1300EGPとの見積もり。

約1/3の費用(※)で済みました。(EGP/JPY=15、HUF/JPY=0.4として)

 ※エジプトの歯科医ではクラウンの素材(Goldやセラミックなのか)を確認していません。

銀歯を製作、加工するという作業がなく、とてもクイックです。しかも安い・・。
ハンガリーでの歯科治療、とてもお薦めです。

もちろん、日本の歯科治療の技術水準であれば、やろうと思えばこれくらいのスピードで出来るはず・・・・。
ですが、自由診療(無保健)を除いて、日本の歯科医は保険診療です。
その仕組み上、短時間の治療を幾度となく繰り返し、患者を何度も通院させることで点数を獲得し経営を維持する、というのが現状です。

おまけに歯科医院は飽和状態で、日本歯科医師会はなんらかの政治的なアクション(要は歯科医師がこれ以上増えると食い扶持が減るので、将来的に歯科医を減らす政策をとれということ)が必要だと提言しているようです。

医療は国の基幹にかかわる分野なので、他産業や他業種と全く同じに論ずることは出来ませんが、他業種が世界との競争にさらされ、その中でギリギリの戦いを続けている現代で、いかにこの業界が遅れているのか、良くわかる発言でした。

誰もが情報に容易にアクセスできる時代ですから、患者側も賢くなっています。
既に始まっている歯科医院の生き残り競争ですが、今後、より激化することは必至で、研鑽を惜しまない高い技術を持った高い水準のサービスを提供できる歯科医院が生き残っていく時代になっていくと思います。

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さて。
翌日は朝早く出発するので、今日の夕飯は簡単に。
パッパとパスタ、それにジャガイモとベーコンのロースト。
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これでブダペストともお別れ、嬉しいような悲しいような。

ところで、この街では路上生活者を見ては虚しい気分になっていたのですが、日々観察をしていると、彼らはどうもちゃんとご飯を食べているみたいだし、たまにワインまで飲んでいることに気付きました。

夜はけっこうフカフカの寝袋で寝ているし。。もしかしてそれなりにハッピーなのかもしれません。

幸せの基準は人それぞれですしね。
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さよならプラハ、またブタペストへ

プラハを堪能し、ハンガリーの首都ブダペストへ戻った日の日記です。。

ブダペスト行きのバスは23:00出発、時間にかなりの余裕があるので、ホテルに荷物を預けてプラハの街歩きに出掛けました。

プラハ城に行くと、なんだか人だかり。ちょうど衛兵交代式が始まるところでした。
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ストラホフ修道院
1142年に創立されたボヘミア最古のプレモンストラート会の修道院(男性の修道院)です。
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ストラホフ修道院の回廊とギャラリーを見学しました。入場料60CZK/名。
人が少なく、静かで落ち着いたギャラリーでした。
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お腹が空いてウロウロしていると、素敵な建物に入ったビアレストランを発見。
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なんだかいい味出してるなぁ。入ってみましょう!
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小さなお店はお客さんでいっぱい。
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次々とビールがつがれていきます。
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ちょっとしたおつまみを4品ほど注文し、ビールを5、6杯飲み、お会計は合計308CZKでした。安いなぁ。
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満腹になり、さらにウロウロ。こちらはロレッタ教会。
ここは1699年に6222個のダイアモンドを使用して製作された聖体顕示台で有名。
興味がなかったので見に行きませんでしたが、いつものことながらカトリックの意味不明なド派手さに戸惑いを感じます。
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住宅街を歩いてみる。静かで心地よいな。
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こんな緑の小道も歩いてみる。
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聖ヴィート大聖堂が見えました。どの方角から見ても大迫力の大聖堂。
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おっと、レトロで素敵なトラムだ!
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こんなふうにブラブラしていたら、あっという間に夜。荷物を背負ってフローレンスバスターミナルに向かいました。

今回の夜行バスもハンガリーのバス会社Orangewaysのバス。チケットは往復で既に購入済み。

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快適バスで爆睡し、翌朝あっという間にブダペストに到着しました。

街並みも人々の表情も、晴れやかで幸せそうだったチェコとは違って、ドンヨリとして路上生活者も多いブダペスト・・・

でも、ダリオの2回目の歯科治療という大切な目的があるのです!

歯医者のすぐ近所にあるアパートを既にネット予約済みなので、まずはアパートに辿り着くため、メトロに乗って移動しました。

が、これまでも経験済みですが、ホテルではなくアパートに泊まるというのはちょっと面倒・・・

個人や不動産会社がアパートを貸し出しているので、ホテルのようなレセプションがないのです。

ですので、オーナーや管理人に『今、アパートに着いたよ~、どうすればいい?』と電話をしたり、または、いつ何処で鍵を受け取るか事前に打ち合わせをしたりする必要があるのです。

今回もまずは管理人・モニカに電話をして、やっとのことでアパートの掃除婦さんを呼び出してもらえました。

チェックインするには早すぎるので、掃除婦さんに大きな荷物を預け、12:00に再度アパートの前で待ち合わせの約束をし、街にくりだしました。


まずは市場で食材を購入してからブラブラ。
ブダペストには、タイル使いの美しい教会がたくさんあります。
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こんな美しい歴史的な建造物も。
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ど派手な建物はユダヤ教徒の礼拝所シナゴーク。
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額縁屋さんの猫さん。
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そして12:00、アパートに戻りチェックイーン。
Aboriginal Budapest Apartments 39EUR/室。
リビングルーム、ベッドルーム、バスタブ付浴室、トイレ(浴室とは独立)、洗濯機、キッチン(食器洗い機、トースター、コーヒーメーカー、電子レンジ、湯沸かし器、食器、調理器具完備)、テラス、WIFI付
WIFIは、私たちが滞在したときは故障していました。なので近所の弱い野良電波を拾いネットをしました。
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完璧なファシリティー。
バスタブがあるので、湯をはり何度も入浴。そして洗濯機があるので、無駄にたくさん洗濯。
面倒なチェックインさえしてしまえば、アパートはとても快適です。
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お腹がすいたなぁ。こんなときは、やっぱり中華でしょ!
中華料理はハンガリー人にもしっかり定着している様子で、ひっきりなしにお客さんがやってきます。
ボリュームがあって、かつお手ごろ価格のためか、特に肉体労働者がたくさん来店していました。
華僑はどこでもたくましく商売、バイタリティーがあるなぁ。
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ランチの後、ダリオは歯医者にでかけました。

明朝ブダペストを発ち、3回目の治療まで、また一週間程どこかの国をブラブラして戻って来るつもりだったのですが、先生に相談したところ、なんと2日後にフィリングをして、治療を終わらせてくれるそうです!!

これでブダペストに戻ることを考えずに旅を続けることができます、嬉しいな。

プラハの建物

今日もプラハの街をブラブラ。

さて、トラムに乗って旧市街にやってきました。
建物を見て歩きます。素敵なドアだね。
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こちらキュビズム建築の建物『黒い聖母の家』
昔ここにあった建物に黒い聖母像がおかれていたのが名前の由来だそうです。
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旧市街広場と旧市庁舎。
プラハの道は、どこもこんな石畳。小さな正方形の石を、手作業でひとつひとつはめている姿をよく見かけます。扇形に石が並んでいたり、市松模様に並んでいたり。
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ユダヤ人街にやってきました。
10世紀、ユダヤ人商人がこの辺りに住み始めたのがプラハのユダヤ人街の始まりだそうです。
プラハはユダヤ人に対して寛容だったため、多くのユダヤ人がやってきてました。
彼らは、現在の旧市街広場からモルダウ川岸までの地域に住む場所を限定され、中世の頃には大きなゲットーが存在していたそうです。
19世紀半ば、時の皇帝ヨゼフ2世は、不衛生なゲットーの解体し、新たに造りなおしました。これが、現在残るユダヤ人居住区。新たな居住区は、プラハ市の一地区として組み込まれ、またヨゼフ2世はユダヤ人の権利を大幅に認めました。
しかし1939年、プラハはナチスに占領されます。ユダヤ人の商店には目印をつけるように指令が出され、「ユダヤ人立ち入り禁止」のプレートが各所に取りつけられました。
ユダヤ人全住民の戸籍簿の作成、ユダヤ人の商店やシナゴーグの閉鎖、ユダヤ教の祭事の禁止と、締めつけは強くなっていきます。
戦前プラハに暮らしていたユダヤ人5万5千人のうち3分の2以上の人たちがホロコースへ収容され、犠牲になりました。チェコ全体では9万2千人のユダヤ人のうちが約7万のチェコ系ユダヤ人がテレジン収容所に送られ、そのうちの80%がアウシュヴィッツ、マイダネック、トレブリンカ、ソビボアなどの収容所で虐殺されました。

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プラハで最古のシナゴーグ、旧新シナゴーグ。
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これは儀式の家。1912年に建てられたもので、すぐ横にユダヤ人墓地があります。
儀式の為のホールで、遺体置き場でもあったそうです。
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ユダヤ人居住区を出て街歩き。
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この建物の装飾、綺麗だな。
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モルダウ川。丘の上にはプラハ城、ひときわ目立つのは聖ヴィート大聖堂。
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チェコ国民の寄付により建てられた『国民劇場』。
チェコがオーストリア帝国の一部であった時代、プラハにはドイツ語による劇場しかありませんでした。1844年、チェコの愛国者たちの間で、チェコ語による劇場を求める声が高まり、「チェコ語によるチェコ人のための舞台」を求めて1845年に建築申請し、許可を得ました。これにより、1851年から国民劇場建設のための募金が開始します。翌年には、ヴルタヴァ川のプラハ城を望む絶好の位置の土地を購入するに至ります。
1862年には仮設の劇場が建設され、1868年には基礎が置かれ、チェコ人の建築家ヨゼフ・ジーテクと助手のヨゼフ・シュルツの設計をもとに、本格的な工事が始まり、1881年に完成しました。

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そして再びウロウロと歩き回ります。
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ウ・フレクー U Flekというビアレストランに入ってみました。
ここは元々修道院だった建物を使用した1499年創業のお店。
ビールは美味しかったのですが、かなりツーリスティックなお店で興ざめ。
お客さんに地元の人はいない。頼んでもいないお酒を、何度断っても勧めてくる。きわめつけはヘタなアコーディオン弾きがやってきて煩い。
急いでビールを飲んで出てきました。お店選び失敗(笑)
でもビアカップでできたシャンデリアはかわいかったです。
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そしてブラブラ。
これはダンシング・ハウス、1996年に建てられた現代建築ですが、街並みにまったくなじんでません。
タイム誌で同年の最優秀デザイン賞を受賞したそうです。
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夕飯はまた昨日と同じビアレストラン。庶民的なここが気に入ってます。
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今日一日終了。しかし寒いな~。

プラハ城

特に予定もなく、ブラブラ好き勝手にプラハを歩いた今日一日♪

宿近くの不動産屋で、買う予定もないけれど物件の値段チェックをしてみたり。
小さなタバコ屋をのぞいてみたり。ここではメトロチケット(トラム、バス共通)を買うこともできます。
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野菜の新鮮度をチェックしたり。ピカピカで新鮮な野菜だらけ!
大きな古いビルを見上げてみたり。
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そして、昨日だけではとても見きれなかったプラハ城にやってきました。
すると高級宝石メーカー、カルティエの期間限定展示会が催されているではありませんか!
お宝が見れるかもと入場、650CZK/名。
1800年代後半から現代に至るまでの作品350点が展示されていて、インドのマハラジャ、風と共に去りぬのヴィヴィアン・リー、『世紀の恋』のシンプソン夫人などのセレブ達が、カルティにオーダーし身に着けた宝石を見ることができます。19世紀のロイヤル・ファミリーのティアラなどは、それは見事でした。
宝石そのものよりも、オーダーした人の人生や、その宝石を身に着けている写真がとても興味深かったです。
これだけの数の宝飾品が年代順に並べてあるため、時代が新しくなるほどシンプルなデザインにかわっていく、そんな変化が感じられる展覧会でもありました。
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次はプラハ城の歴史的建造物を見学。今日は聖ヴィート大聖堂にも入ってみましょう。
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以下、聖ヴィート教会について。
現在ある場所に最初の教会が建てられたのは925年のことで、ボヘミア公のヴァーツラフ1世(聖ヴァーツラフ)によって初期ロマネスク様式の円形建築の教会が建設されました。聖ヴィートが守護聖人として選ばれたのは、ヴァーツラフがドイツ王ハインリヒ1世から聖遺物、すなわち「聖ヴィートの腕」を与えられたからであることと、また同時にヴァーツラフは、民衆が土着の宗教からキリスト教への改宗に抵抗を感じないよう、スラブの太陽神スヴァンテヴィトによく似た響きを持つ名前の聖人を選んだともいわれています。
キリスト教徒が増加し、土着の宗教人口は減少したが、2つの宗教は少なくとも11世紀まではプラハ城内に共存していたそうです。
現在のゴシック様式の大聖堂は1344年の11月21日に着工され、フス戦争により建築が中断したり、大火による損傷を乗り越え、何人もの建築家に委ねられて600年後、大聖堂は完成しました。

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薔薇窓、大きいなぁ。
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この世界観・・・むむむ消化し切れません。
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聖ヴィート大聖堂で一番の見所は、美しいステンドグラス。
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数ある素晴らしいステンドグラスの中で最も有名なのがこちら。
アールヌーボーの華『アルフォンス・ミュシャ(チェコ語ではムハ)』の手がけた作品。
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ミュシャって誰?って思うかもしれませんが、こんな絵を描いた人です。
この乙女な作品、誰もがどこかで目にしたことがあると思います。
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ミュシャはオーストリア帝国のモラヴィア(現代のチェコ)イヴァンチツェに生まれ、少年期は教会の聖歌隊の一員となり、夏休みには合唱隊の聖歌集の表紙を描くなど絵を得意とする少年でした。
中学校を中退、地方裁判所で働き、19歳でウィーンに行き舞台装置工房で働きながら夜間のデッサン学校に通います。そして1883年ミクロフでクーエン・ブラシ伯爵に会い、その弟のエゴン伯爵がパトロンとなりました。25歳のときエゴン伯爵の援助でミュンヘン美術院に入学、卒業し、28歳のときパリにてアカデミー・ジュリアンで美術を学びます。彼は初期の売れない時代には雑誌の挿絵なので生計をたてていたそうです。彼の出世作は1895年、舞台女優サラ・ベルナールの芝居のために作成した「ジスモンダ」のポスターであり、彼は一夜にしてアール・ヌーヴォーの旗手としての地位を不動のものとしました。その後、煙草用巻紙(JOB社)、シャンパン(モエ・エ・シャンドン社)、自転車(ウェイバリー自転車)などの多くのポスター、装飾パネルも数多く手がけます。
商業的に成功をおさめ、財政的な心配のなくなったミュシャは1910年、故国であるチェコに帰国します。1918年にハプスブルク家が支配するオーストリア帝国が崩壊し、チェコスロバキア共和国が成立すると、新国家のために紙幣や切手、国章などのデザインを行いました。財政難の新しい共和国のためにデザインは無報酬で請け負ったそうです。1939年3月、ナチスドイツによってチェコスロヴァキア共和国は解体されると、プラハに入城したドイツ軍によりミュシャは逮捕されます。逮捕理由は「ミュシャの絵画は、国民の愛国心を刺激するものである」ということ。ナチスはミュシャを厳しく尋問しますが、それは78歳のミュシャの老体には耐えられないものでした。その後ミュシャは釈放されますが、 4ヶ月後に体調を崩し、祖国の解放を知らないまま生涯を閉じたのです。



そんなミュシャのステンドグラス、独特の雰囲気を漂わせます。
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聖ヴィート教会を出て、景色を眺める。
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と、衛兵交代式が始まりました。なんか動きが不揃いだし、表情もキリっとしていない・・・
日本の自衛隊の行進を見せてあげたいものだ。
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プラハにはいくつもの国立美術館がありますが、そのうちの国立美術館シュテルンベルク宮殿館 Narodoni Galerie Sternbersky Palacにやってきました。入場料150CZK/名。
写真は撮っていませんが、この美術館のルーベンスコレクションはとても素敵でした。

以下、個人的に気になった絵。
これはJan Swart van Groningenの絵。服がとても綺麗に描かれているな~。
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クラナッハ Cranachの絵。若い女性がこっそり老人のバッグに手を入れています。
女性の興味は老人の持つ財産のようです。
老人が若い女性に騙されるというテーマの絵は、とてもよく見かけます。
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プラハ城の庭園。でも寒いからすぐに引き返す。
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宿の近くまで戻り、こんな食堂へ。
ケーキを買ったり、ちょっとおつまみをつまんだり。
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そして夕飯は、宿の近くのレストランへ!ビール最高!!!
ここのお客さんはチェコ人ばかり、値段も地元価格。
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今夜もモリモリ食べて、ビールも6杯飲んで合計322CZK。安いな~。
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今日も盛りだくさんな一日でした。

ブダペスト王宮の丘、チェコ到着

夜行バスに乗ってチェコへと向かう前に、ブダペスト一番の観光名所である『王宮の丘』に行ってみました。

と、その前に腹ごしらえ。
ブダペストには中華料理屋がそこここにあって、300円もだせばお腹いっぱい食べられます。
写真映りはイマイチですが味もそこそこ美味しいです。
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メトロに乗ります。ブダペストのエレベーターは日本の2倍ほどの速度で進み、ちょっと恐いです。
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メトロでブダ地区まで行き、ヒイヒイいいながら上り坂を登ると王宮の丘。
この丘は世界遺産に登録されています。
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ここでちょっとブダペスト基本情報をどうぞ!(Wikipedia, Wikitravelより)

街の中心をドナウ川が縦断するが、西側のブダ地区と東側のペスト地区はかつでは別々の町でした。

ブダ地区は丘の上にブダ城(かつての王宮)や要塞があり政治的・軍事的拠点なのに対し、ペスト地区は平野部に位置し経済的拠点だったのです。

89年頃ローマ帝国が、ケルト族が定住していた現在のオーブダ地区の近くに建設した都市アクインクムがブダペストの起源とされます。

アクインクムは106年から4世紀の終わりまで、ローマ帝国のパンノニア州の州都で、ドナウ川の対岸にあたる現在のペスト地区は、コントラ・アクインクム(「アクインクムの反対側」という意味)と呼ばれていました。

900年に今日のハンガリーの主要民族であるマジャル人がアールパードに率いられ、パンノニアと都市を占領し、1世紀後にハンガリー王国が誕生します。

ハンガリー王国における重要都市となったペストは、1241年にモンゴル帝国のバトゥの征西軍の侵入を受けますが、ベーラ4世の下ですぐに復旧されます。

16世紀に入ると、オスマン帝国がハンガリーのほとんどを征服し、ハンガリー中央部を支配するオスマン帝国属領としてブダ州が設置されて、ブダがオスマン帝国の総督の駐留地となりました。一方のペスト地区はこの時期ほと
んど見捨てられた状態でした。

1526年以降名目上のハンガリー王であったオーストリア大公・ハプスブルク家が、1686年に王国領を奪回します。

1723年、王国の行政組織が置かれたペストは、18世紀から19世紀に急速な成長を遂げ、ブダペスト全体の発展の大部分に貢献するようになりました。

第二次世界大戦中の1944年のドイツ軍による占領以来、ブダペストに暮らすユダヤ人のうち200,000人が、ナチス・ドイツの虐殺によって死亡しました。

それに続くソ連軍の占領によって、さらに人口は減少し、1950年代から1960年代になるまで回復することはありませんでした。


世界一美しいといわれている国会議事堂。
バロック様式とネオゴシック様式が入り混じったヨーロッパ随一の建造物だそうです。
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この騎馬増は初代ハンガリー国王イシュトバーン。
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王宮の丘は完全に観光地化していて、私たちにはあまり面白いものではありませんでした。
なので、丘を下りこの門の前からバスに乗り、ペスト地区に戻りました。
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こちらペスト地区のオペラ座。
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夕食はハンガリー料理の食堂へでかけました。
ビーフストロガノフ(のようなもの)とライス、マッシュルームのフライ、スープ、ビール、コーラ、合計2740HUF。安いのですが、ここは味はイマイチを通り越して不味い・・・。お店選び失敗、残念。
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さて、のんびりとした後は、宿で荷物をピックアップしNepliget Bus Stationに行きます。
今日はOrangewaysという会社のバス。
このバス会社はハンガリーを拠点にヨーロッパの各地へお手ごろ価格でバスを運行しています。
私たちのバスチケットは、往復で11280HUF/名。
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夜行バスに乗ると、首や背中が痛いことが多いのですが、Orangewaysの座席はクッションがよく、その形も背中にぴったりと快適、どこも痛くなりませんでした。
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翌日は新たな国チェコ。

朝7:30、快適なオレンジウェイズの夜行バスは無事にプラハのフローレンスバスターミナルに到着しました。

久々に失業率一桁代の国にやって来ました(笑)

プラハの街にバスが入ったときに見えたのは、オレンジ色の屋根で統一された家々の風景、古い城壁、起伏に富んだ街並み、それは美しい風景でした。


ここでちょっとチェコ基本情報をどうぞ(外務省HPより)。

国名:チェコ共和国(Czech Republic)


一般事情

1.面積 78,866平方キロメートル(日本の約5分の1)

2.人口 1,043万人(2008年)

3.首都 プラハ

4.民族 チェコ人94%、その他スロバキア人、ロマ人等(2001年)

5.言語 チェコ語

6.宗教 カトリック 26.3%、無信仰 58.3%(2001年)

7.祝日

4月中(イースター・マンデー。年毎に異なる)、5月8日(戦勝記念日)、7月5日(ツィリルとメトディウスの日)、7月6日(ヤン・フスの日)、9月28日(チェコ国体記念日)、10月28日(独立記念日)、11月17日(自由と民主主義のための闘争の日)

8.略史

年月 略史
9世紀 大モラビア帝国成立
10世紀 大モラビア帝国滅亡、ボヘミア王国成立
1620年 ハプスブルク帝国の支配下に
1918年 第一次世界大戦後、チェコスロバキア共和国成立
1938年 ミュンヘン協定により、チェコスロバキア共和国崩壊
1939年 ボヘミア・モラビア地方はドイツの保護領に
1945年 第二次世界大戦後、独立回復
1948年 共産主義体制確立
1968年 「プラハの春」事件
1989年 民主革命(「ビロード革命」)により共産主義体制が終結
1993年 スロバキアと平和裡に分離・独立


政治体制・内政


1.政体 共和制

2.元首 ヴァーツラフ・クラウス(Václav Klaus)大統領(2008年3月再任、2期目、任期5年)

3.議会 2院制(下院200名 任期4年、上院81名、任期6年)

4.政府

(1)首相 ペトル・ネチャス(Petr Nečas)(2010年6月就任)

(2)外相 カレル・シュワルツェンベルグ(Karel Schwarzenberg)(2010年7月就任)

5.内政
* 1989年の民主革命(「ビロード革命」)後のスロバキアにおけるナショナリズムの高揚を背景に、チェコは、1993年1月スロバキアとの連邦を平和的に解消し独立。
*クラウス中道・右派連立政権下でマクロ経済は安定して推移したが、1996年春の下院選挙で、左派の社民党(CSSD)が大躍進し、第二次クラウス政権は少数内閣となった。
* 1997年11月、与党市民民主党(ODS)の政治献金疑惑をきっかけにクラウス政権は総辞職。トショフスキー選挙管理内閣を経て行われた 1998年6月の繰上選挙でCSSDが第1党となったものの、左派、右派とも単独過半数を得られず、交渉の結果、右派ODSの閣外協力に支えられたゼマン CSSD政権が成立した。
* 2002年6月の下院選挙では、CSSDが若干議席を減らしたものの、第一党の地位を維持し、キリスト教民主連合-人民党(KDU-CSL:中道)及び自由連合-民主連合(US-DEU:右派)との間で政策協議・連立交渉を行い、同年7月、三党からなるシュピドラ連立政権が成立した。
* 2003年2月、民主化革命後約13年大統領を務めたハヴェル氏は任期満了で大統領退任。第1回から第3回まで行われた大統領選挙の結果、第1回及び第2回選挙で最多得票のクラウス元首相(ODS)が大統領に選出された。
* シュピドラ政権は、EU加盟に向けて国内の改革を進め、2004年5月にEU加盟を成し遂げたが、同年の欧州議会選挙での敗北を受け、シュピドラ首相は辞任。グロス首相の下で第2次三党連立内閣が発足。
* しかし、2004年11月の上院選挙(1/3改選)における敗北、政治スキャンダル等により、グロス首相に代わってパロウベク内閣を樹立(2005年4月)。
* 2006年6月、任期満了に伴う下院選挙が実施され、野党第一党の市民民主党(ODS)が勝利し、3ヶ月に渡る交渉の結果、9月、トポラーネク ODS党首を首班とするODS少数内閣が発足したが、下院の信任を得られず総辞職。その後、再度トポラーネクODS党首が首相に任命され、第二次トポラーネク内閣が2007年1月9日に任命される。同内閣は19日に下院で信任を受け、正式に成立。
* 2008年2月、任期満了に伴う大統領選挙が実施され、第1回及び第2回選挙の結果、クラウス現大統領が再選された。
* 2008年10月、上院選挙(1/3改選)及び地方選挙が実施され、野党第一党の社会民主党(CSSD)が大きく議席を増やした。
* 2009年3月24日、内閣不信任案が下院で可決されたことを受け、トポラーネク内閣は総辞職。5月8日にフィシェル新首相(前統計局長官)が就任(選挙管理内閣が発足)。10月に繰り上げ総選挙を予定していたが、下院議員の任期短縮に関する異議申し立てを受け、憲法裁判所が繰り上げ総選挙の実施取り消しを決定。
* 2010年5月28-29日に任期満了による下院選挙を実施。社会民主党(中道左派)が第一党となったが、第二党の市民民主党(中道右派)とは僅差に終わり、社会民主党は同じく左派のチェコ-モラビア共産党の議席数とあわせても過半数に達しないことから敗北を表明し、パロウベク社会民主党党首は辞任。
* 第二党となった市民民主党を中心に、新党「TOP09」と「公共の物」が連立政権形成に合意。6月28日にネチャス市民民主党党首が首相に任命、7月13日にその他閣僚が任命され、ネチャス新内閣が発足。

外交・国防

1.外交基本方針

(1)「欧州への回帰」を大目標に、EU及びNATO加盟を目指し改革を進めてきた。

(2)1995年12月には、いわゆる移行経済国として初めてOECD加盟を実現。

(3)1999年3月にNATOに正式加盟。

(4)1998年3月からEU加盟交渉を開始、2004年5月1日に正式加盟した。

(5)2009年1月から6月までEU議長国を務めた。

2.軍事力

(1)予算 26.6億ドル(2008年)

(2)兵役 徴兵制度を2004年で廃止し、職業軍人化

(3)兵力 3.8万名(2008年)

経済

1.主要産業機械工業、化学工業、観光業

2.GDP 2,164億米ドル(2008年)

3.一人当たりGDP20,805米ドル(2008年)

4.経済成長率 -4.1%(2009年)

5.物価上昇率 1.0%(2009年)

6.失業率 9.2%(2009年)

7.総貿易額

(1)輸出 1,124億2,500万米ドル(2009年)

(2)輸入 1,042億9,400万米ドル(2009年)

8.主要貿易品目

(1)輸出 機械・輸送用機器、原料別製品、雑製品、化学工業製品

(2)輸入 機械・輸送用機器、原料別製品、化学工業製品、雑製品

9.主要貿易相手国(2008年)

(1)輸出(%) ドイツ(30.8)、スロバキア(9.3)、ポーランド(6.4)、フランス(5.4)、英国(4.8)

(2)輸入(%) ドイツ(26.8)、中国(8.8)、ロシア(6.4)、ポーランド(5.9)、スロバキア(5.6)

10.通貨チェコ・コルナ(Kc)

11.為替レート 1ユーロ=26.45コルナ(2009年平均)

12.経済概況

(1)1989年の民主革命後、市場経済への移行をめざした経済改革を実現。

(2)1993年のスロバキアとの分離・独立を経て、1994年には経済成長率がプラスに転じる等順調な成長を遂げる一方、低い失業率、比較的安定したインフレ率を維持し、「チェコ経済の奇跡」と呼ばれた。

(3)しかし、その後法制度の未整備等を背景に不正蓄財の横行、不良債権の蓄積、通貨危機等さまざまな問題に直面した。

(4)一時深刻な不況に陥ったチェコ経済は、1997年から1999年まで3年連続マイナス成長を記録したが、直接投資の拡大が景気を引っ張る形で設備投資全体が回復し、1999年以降プラス成長を続けた。

(5)欧州経済が低迷する中で内需拡大及び輸出増加により2005年以降6%台の高い成長を続けていたが、2008年になると成長が鈍化した。前半は物価上昇やチェココルナ高の影響を受けた緩やかな景気減速であったが、9月の国際金融危機以降、主要貿易相手国の景気低迷の影響を受け、急激に景気が低迷している。

(6)ユーロ導入時期は未定。

経済協力(単位 億円)

日本の援助実績(2002年度末までの累計)

(1)対チェコスロバキアODA

(イ)有償資金協力 なし

(ロ)無償資金協力 0.91億円

(ハ)技術協力実績 5.96億円

(2)対チェコODA

(イ)有償資金協力 なし

(ロ)無償資金協力 3.82億円

(ハ)技術協力実績 7.12億円

二国間関係

1.政治関係

(1)両国関係は、旧チェコスロバキア時代から良好。1989年末の民主革命後、両国関係は急速に拡大した。

(2)日本は1993年1月1日のチェコ独立と同時に同国を承認し、同1月29日に外交関係を開設した。

(3)2007年に両国の国交回復50周年を迎えた(1957年に日本とチェコスロバキア(当時)の間で国交回復に関する協定を締結してから50周年)。

2.経済関係

(1)日本の対チェコ貿易(2009年、財務省貿易統計)

(イ)貿易額
輸出 1,585億円
輸入  398億円
(ロ)主要品目
輸出 科学光学機器、音響・映像機器部品、半導体等電子部品
輸入 自動車部品、野菜、医薬品

(2)日本からの直接投資

149億円(2009年フロー、日本銀行)
主要事例:TV製造、自動車製造等

(3)進出日系企業数

約240社(2009年3月現在)(出典:ジェトロプラハ事務所)

3.文化関係

 両国の文化交流は、伝統的に盛んであったが、近年飛躍的に活発になっている。

(1)文化無償供与実績:国民美術館への視聴覚機材(1999年度)、ブルノ交響楽団への楽器(2000年度)、オストゥラヴァ市モラヴィア・シレジア国民劇場への録音機材(2001年度)、パラツキー大学へのLL機材供与(2002年度)

(2)姉妹都市関係(ピルゼン市と高崎市、カルロヴィ・ヴァリ市と群馬県草津町、プラハ市と京都市、ウヘルスキー・ブロット市と群馬県月夜野町(現みなかみ町))

4.在留邦人数 1,530人(2009年10月)

5.在日当該国人数 241人(2004年12月)




ここで興味を引いたのが、6の宗教について。

プラハは中世キリスト教の法王が行なった免罪符の発行に対して異論を唱えたヤン・フスがいたところです。(フスの話は後述します。)

そういう歴史の影響もあってか、国民の宗教の構成は『カトリック 26.3%、無信仰 58.3%』。

キリスト教国がムスリム国に仕掛けたばかげた争い、問題になっている神父達の児童達に対する性的虐待・・・などなど。。。これまで各国を訪問するうちにキリスト教への疑問符(これはキリスト教にだけ感じているわけではなく宗教全般に関してですが)、が積もってきた私にとっては、この無宗教率の高さに好感を持たずにはいられないのです。


それでは、チェコに到着した日の様子どうぞ。

通貨は1CZKチェココルナ=4.39円です。

左はフローレンス・バスターミナル、右はメトロの駅。
電光掲示板、案内図と全てが判り易く、迷う心配は皆無。ひとめでどちらに進めばいいのか判ります。
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メトロに乗り、Dejvicka駅で下車。宿を目指します。
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プラハの宿は『Hotel Denisa』、イギリスの直前割引サイトで予約しました。
テレビ、エアコン、ミニバー、Wifi、バスタブ付バスルームで1泊29£/室(1£=130円)
プラハは宿が高いと聞いていましたが、お手ごろ価格で快適かつ清潔な宿に泊まることができました。
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久々のホテル泊。アイロンがしっかりかかったリネン、毎日ルームクリーニング付!!
なんだかテンションがあがります。特にバスタブが嬉しくて日に2回は湯をはって入浴しました。←貧乏性(笑)
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宿に荷物を置いた後は、プラハの街をお散歩。

その前にプラハ情報をどうぞ。

プラハは、6世紀後半にスラヴ民族によりヴルタヴァ川河畔に形成された集落に始まります。

9世紀後半にはプラハ城、10世紀頃にヴィシェフラト城が建てられ、両城に挟まれたこの地に街が発達しました。

973年にキリスト教の司教座が置かれると、ユダヤ人の入植が始まります。

しかし、プラハは度重なる戦渦に巻き込まれ、一旦荒廃してしまいました。

その後、1346年にボヘミア王カレル1世が神聖ローマ帝国の皇帝に選ばれ、カレル4世(ドイツ語名カール4世)となると、神聖ローマ帝国の首都はプラハに移され、プラハ城の拡張や、中欧初の大学、カレル大学の創立、カレル橋の建設とヴルタヴァ川東岸市街地の整備などの都市開発が行われ、ローマやコンスタンティノープルと並ぶ、ヨーロッパ最大の都市にまで急速に発展、「黄金のプラハ」と形容されるほどになりました。

次代国王ヴァーツラフ4世(ドイツ語名ヴェンツェル)の治世、ヤン・フスによるローマ教皇庁への抗議が行われ、1415年にフスが火刑にされると、フス派によってフス戦争が勃発、ローマ教皇の十字軍を破るが、15世紀後半にハプスブルク家のアルブレヒト2世がボヘミア王になると、フス派はその支配下に入ります。

16世紀後半、ルドルフ2世の治世になると、芸術や科学を愛する王の下、プラハに芸術家、錬金術師、占星術師などが集められ、プラハはヨーロッパの文化の中心都市として栄華を極めます。

しかし、1618年にプラハ城で起きた『プラハ突き落とし事件』件を皮切りにビーラー・ホラ(白山)の戦いが勃発し、三十年戦争に発展します。

1648年、カトリックの最後の牙城だったプラハはスウェーデン軍に包囲されるが、ヴェストファーレン条約が締結され、戦争は終結。しかし、王宮はウィーンへ移転され、プラハは人口が激減します。

また、チェコ語の使用禁止や、宗教弾圧や文化弾圧などを受け、チェコは独自の文化を失い、2世紀以上にわたって「暗黒の時代」といわれるチェコ民族文化の空白時代を迎えることとなったのです。

18世紀末、フランス革命やドイツ・ロマン主義に影響を受けた知識人らによって再び民族独立の動きが強まります。1848年にはプラハ市民によるオーストリアに対する蜂起がおこるが失敗に終わります。

第一次世界大戦終結後の1918年にオーストリア=ハンガリー帝国が解体し、チェコスロヴァキア共和国が成立すると、プラハ城に大統領府が置かれ、首都となります。

1922年初頭に、37の自治体を合併し、人口は676,000人となりました。

しかし、1938年、ナチス・ドイツによって占領され、チェコスロヴァキアは解体、第二次世界大戦中はここに居住していたユダヤ人約5万人がナチスによって殺害されました。

第二次大戦後は、社会主義国チェコスロヴァキアの首都となりました。

1968年にはプラハの春と呼ばれる改革運動が起こるが、ワルシャワ条約機構軍の侵攻を受け、改革派は弾圧されてしまいます。

しかし、1989年のビロード革命により共産党政権は崩壊、1993年にチェコとスロヴァキアが分離するとチェコの首都となりました。

2002年にドイツ東部からチェコを襲った水害では、ヴルタヴァ川(モルダウ川)が氾濫し、広範に床上浸水し、市の地下鉄が数ヶ月に渡って停止するなどの大きな被害を受けました。



お散歩開始。街中を縦横無尽にトラムが走ります。
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一番の見所『プラハ城』にやってきました。
プラハ城は、かつてボヘミア国王や神聖ローマ皇帝の居城であり、現在はチェコ共和国(元チェコスロバキア連邦共和国)の大統領府のある場所。世界でも最も大きい城の一つとされています。
プラハ城の敷地内には、ゴシック様式の聖ヴィート大聖堂、ロマネスク様式の聖イジー教会のバシリカと修道院、そして宮殿、庭園、尖塔があり、先の千年間のあらゆる建築様式を実態的にあらわしているそうです。
城内の大部分は観光客に開かれており、現在、城の建物には国立美術館ボヘミアバロック部門、国立美術館ヨーロッパ絵画・中世部門、チェコの歴史について展示する国立歴史博物館、おもちゃ博物館、ルドルフ2世の収蔵品をもとにしたプラハ城絵画美術館といったいくつかの博物館もあります。

入場料は二日間有効で350CZK/名、これで敷地内にあるほとんどの施設に入場可能です。
これは聖ヴィート大聖堂、大迫力です。
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城壁の中に入ると、広い中庭。
写真を見てお分かりの通り、プラハはとても寒いです・・・
最終日とはいえ、まだ8月。なのに皆の格好は冬支度。
ヒートテック、ダウンジャケット、それにレインコート、大活躍です。
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聖ヴィート大聖堂。
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プラハ城から街が一望。
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モルダウ川が見えます。
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この街には曇り空がとても似合う。
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チェコで有名な人といえば、作曲家のスメタナとドヴォルザーク。
このモルダウ川は、スメタナが作曲した交響詩『我が祖国』の中の第2曲『モルダウ』で有名です。
スメタナは、オペラの指揮者として最盛期に聴覚を失いますが、その後に作曲されたのが不朽の名作『我が祖国』。
モルダウ川に架かるのは『カレル橋』
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プラハ城を後にし、丘を下りカレル橋までやってきました。
『カレル橋』はヨーロッパに現存する最古の石橋で、神聖ローマ皇帝カール4世の治世下1357年に建設が始まり1400年に完成。1841年までプラハ旧市街とその周囲をつなぐ唯一の橋でした。
橋の長さは516mで幅は10m。16連のアーチから構成されています。
また橋を守るために3つの塔が建てられており、とくに旧市街側の塔(上の写真、左側に見える塔)はゴシック様式の建築として名高いそうです。

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橋の欄干には15体ずつ、合計30体のバロック様式の彫刻が並んでいます。ちょっと不気味です。
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カレル橋を渡ると旧市街。
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路地裏をウネウネと歩いて向かったのは・・・
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ビアホール!チェコといえばチェコビール!!ついでに夕飯も食べます。
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チェコビール・・・美味しい!!
今まで訪れた国々で、断トツで美味しい。このお店は500mlで50CZK/杯。
これでも十分安いと思うのですが、私たちの宿のある居住区ではさらに安く、500mlで30CZKほど。
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次々とビールがつがれてゆきます。
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サーバー担当の店員さんは、どの店でも年配のベテランさん。
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チェコ料理を頼んでみました。じっくり煮込んだお肉、これまた美味しい、そしてボリュームたっぷり!
付け合せは、ジャガイモをつぶして蒸したパン。
お腹が痛くなるほど食べて、ビールも6杯のんで、お会計は合計484CZKでした。
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満腹になったら、夕方のプラハをプラプラ。
ここは旧市街広場 Staroměstské náměstí、奥に見えるのはティーン教会。
そして真ん中の像は、チェコの宗教改革の先駆者ヤン・フス。
彼は当時のローマ教会の堕落を厳しく批判し、1415年に火あぶりの刑になりました。
チェコ人に『チェコの英雄は?』と訪ねると、このヤン・フスをあげる人が最も多いそうです。
フスの時代から100年後に宗教改革を行なったルターも、フスを尊敬していたそうです。
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トイレが我慢できなくなったダリオが飛び込んだ公衆トイレ。5CZKを入れると、自動扉が開きます。
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ティーン教会。
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右は時計台。正時ごとにカラクリ時計が動くため、その時間を楽しみにたくさんの観光客が集まります。
しかし、、、そのカラクリ時計、いつクライマックスが来るのかと見守っていたら・・・もう終わり?(笑)
観光客は皆肩透かしを食らったような顔をしていたのがおかしかったです。
派手なエンターテイメントに慣れてしまった現代人には物足りないのかもしれません。
個人的には、カラクリはオマケに過ぎず、この時計の素晴らしいところは、天体の動きを形にして表すことの出来た人間の叡智と技、途中何度か止まった時期はあるものの、600年間、時を刻んできたということにあるのではないでしょうか。
P8317637.jpg


今日もよく歩きました。

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