Vagabond Shoes

Now we are in Bali, Indonesia. 2009年末から旅に出ました。

スポンサーサイト

上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。

さらばポーランド

2010年9月末、夜行バスでお隣の国オーストリアで移動したときのお話。

バスターナルのJordanという旅行会社で、Eurolineの国際バス・ウィーン行きのチケットを購入しました。

21:15出発のバス、お値段は143PLN/名。

無事チケットをゲットした後は、大きい荷物をコインロッカーに預けて街へレッツゴーー!!

いつもであれば、荷物を宿に預けるのですが、宿泊したホステルのレセプションにはほとんどスタッフが駐在していないし。。
受け取りに行ったときに不在だったら。。。なので今回はコインロッカーを利用しました。


今日もシトシト冷たい雨。秋だなぁ。
P9289706.jpg


中央広場にある聖マリア教会。1222年創建、ゴシックスタイルの教会です。
P9289710.jpg


旧市庁舎の塔。昔は建物もあったのですが、現在では塔部分しか残っていません。
P9289711.jpg


クラコフには、ダヴィンチのテンを抱く貴婦人があるのですが、訪問時は改装中で観れませんでした。これは次回のお楽しみだなぁ・・・。

街をぶらぶらした後、暇なのでナショナル・ミュージアムにでかけてみました。入場料10PLN/名。

1879年にオープンしたポーランド最古のミュージアムだそうです。

あまり期待していませんでしたが、昔の家具調度品や衣服の展示が豊富で、意外にもなかなか楽しめました。

訪れる人が少なくとても空いていて、ゆっくり落ち着いて見学できます。


閉館時間までミュージアムを堪能し、カフェへ。お会計は15.3PLN。
P9289716.jpg


夜の聖マリア教会。
P9289717.jpg

さて、バスターミナルに戻り荷物をピックアップしてバスの到着を待ちます。
今日はミニバスでクラコフから2時間ほど走り、途中の街でバスを乗り換えます。

30分遅れでこんなミニバス到着。今回のバスは座席番号が指定されていません。
こんなときはダリオが大きな荷物をトランクに預ける係、ハニコが席取り係。
外人達と熾烈な席取り合戦、これが非常~に燃えます。
そしてナイスポジションに2人分の席をゲット、やったね!!でも2時間後には新たな戦いが待っている!!
P9289719.jpg


そして大型バスに乗り換え。このバスは8割がた先客で占められていました。
しかし鼻息荒く闘ったすえ、無事に2人分の席をゲット!!
ホッと一安心、後は寝ればいいだけ。今回はEU内の移動のため、国境審査はなくラクちんです。
P9289720.jpg

目覚めたらオーストリアだね。
スポンサーサイト

ヴェリチカ塩鉱 Wieliczka Salt Mine

近郊のヴェリチカ塩鉱 Wieliczka Salt Mineを見に行くことにしました。
P9269486.jpg


ヴェリチカ塩鉱は、13世紀から1996年まで採掘が続いていた歴史ある岩塩坑。
9層構造になっており、全長 300kmの坑道では、祭壇、岩塩で作られた彫刻作品の数々が随所に見られ、ユネスコの世界遺産に登録されています。
20人ほどのグループになり、ガイドさんの説明を受けながら3.5キロのコースを見学します。
所要時間は約2時間半(長すぎ・・・)、ツアー代金は65PLN/名。
P9269487.jpg


いつまで降り続けるのか分からなくなるくらいの階段を下りると、ツアーの始まりです。こんなマネキンで昔の様子が再現されています。
P9269497.jpg


馬の大切な労働力。
P9269499.jpg


こんな廊下が延々と続きます。
P9269504.jpg


地下では、馬糞や人糞はどう処理したのでしょう。気になります。
P9269505.jpg


私たちの歩くのは綺麗に整備された階段や廊下。
でも昔の鉱員は梯子をかけて、急な斜面を行き来していました。
P9269510.jpg


水も通っています。
P9269511.jpg


長い水路。
P9269512.jpg


塩でできたシャンデリア。
P9269514.jpg P9269516.jpg

P9269520.jpg P9269521.jpg


地下の教会には最後の晩餐が描かれています。
P9269528.jpg


地上へ戻るのはエレベーターで。あの高さを昇るのはちょっとつらいもんね。
こんな長い廊下をどこまでも進んで、やっとエレベーターに辿り着きます。
長い廊下の途中にはところどころお土産屋があり商魂たくましい。
せっかくの塩鉱見学ですが、なんだか色とりどりのライトで装飾されていたり、余計な演出があったり、地下にレストランやたくさんのお土産物屋があったり、うーん、あまり好きな感じではなかったかな。。
P9269542.jpg P9269543.jpg


さて、バスに乗ってクラコウの中心地まで戻ってきました。
これは中央駅近くのデパート。まるで高島屋のように綺麗です。
P9269544.jpg P9269545.jpg


このデパートの地下には日本食売り場が。ガリ発見!
P9269547.jpg


カレー粉もおたふくソースも。
P9269548.jpg P9269549.jpg


今日もよく歩き回りました。

アウシュヴィッツ

2010年9月にアウシュヴィッツ強制収容所を訪問したときのお話です。

ポーランドにやって来た目的は負の世界遺産『強制収容所』を訪れること。

シトシトと小雨が降るクラコウ2日目、重い気持ちで行って参りました。

施設へはバスが頻発していて1時間半程で到着します。
辺りはひっそりと静か。
身震いするほど今日は寒い、けれど、ここを訪れるのにはこんな気候が相応しいのかもしれない。
P9279572.jpg


以下Wikipediaより。

ホロコーストの象徴と言われる「アウシュヴィッツ強制収容所」とは、1940~1945年にかけて現在のポーランド南部オシフィエンチム市郊外につくられた、強制的な収容が可能な施設群(List of subcamps of Auschwitzに一覧)の総称である。

ソ連への領土拡張をも視野に入れた「東部ヨーロッパ地域の植民計画」を推し進め、併せて占領地での労働力確保および民族浄化のモデル施設として建設、その規模を拡大させていった。

地政学的には「ヨーロッパの中心に位置する」「鉄道の接続が良い」「工業に欠かせない炭鉱や石灰の産地が隣接する」「もともと軍馬の調教場であり、広い土地の確保が容易」など、広範なドイツ占領下および関係の国々から膨大な数の労働力を集め、戦争遂行に欠かせない物資の生産を行うのに適していると言える。

また、次第に顕著となったアーリア人至上主義に基づいた「アーリア人以外をドイツに入国させない」といった政策が国内の収容所の閉鎖を推し進め、ポーランドに大規模な強制収容所を建設する要因にもなった。

労働力確保の一方で、労働に適さない女性・子供・老人、さらには劣等民族を処分する「絶滅収容所」としての機能も併せ持つ。

一説には「強制収容所到着直後の選別で、70~75%がなんら記録も残されないまま即刻ガス室に送り込まれた」とされており、このため正確な総数の把握は現在にいたってもできていない。

収容されたのは、ユダヤ人、政治犯、ロマ・シンティ(ジプシー)、精神障害者、身体障害者、同性愛者、捕虜、聖職者、さらにはこれらを匿った者など。その出身国は28に及ぶ。

ドイツ本国の強制収容所閉鎖による流入や、1941年を境にして顕著になった強引な労働力確保(強制連行)により規模を拡大。ピーク時の1943年にはアウシュヴィッツ全体で14万人が収容されている。

たとえ労働力として認められ、収容されたとしても多くは使い捨てであり、非常に過酷な労働を強いられた。理由として、

・ナチスが掲げるアーリア人による理想郷建設における諸問題(ユダヤ人問題など)の解決策が確立されるまで、厳しい労働や懲罰によって社会的不適合者や劣等種族が淘汰されることは、前段階における解決の一手段として捉えられていたこと。
・領土拡張が順調に進んでいる間は労働力は豊富にあり、個々の労働者の再生産(十分な栄養と休養をとらせるなど)は一切考慮されなかったこと。
・1941年末の東部戦線の停滞に端を発した危急の生産体制拡大の必要性と、戦災に見舞われたドイツの戦後復興および壮麗な都市建設計画など、戦中と戦後を見越した需要に対し、膨大な労働力を充てる必要があったこと

などが挙げられる。

併せて、劣悪な住環境や食糧事情、蔓延する伝染病、過酷懲罰や解放直前に数次にわたって行われた他の収容所への移送の結果、9割以上が命を落としたとされる。

生存は、1945年1月の第一強制収容所解放時に取り残されていた者と、解放間際に他の収容所に移送されるなどした者を合せても50,000人程度だったと言われている。

すべての強制収容所はヒットラーによってSSの下に集約されており、SSが企業母体となる400以上にも上るレンガ工場はもとより、1941・1942年末以降の軍需産業も体系化された強制収容所の労働力を積極的に活用。敗戦後は、SSのみならず多くの企業が「人道に対する罪」を理由に連合国などによって裁かれた。


収容所の入り口。『働けば自由になれる』と書いてあります。(実際は解放されることはありませんでした。)
門のデザインがちょっと洒落ているところが、またこ憎たらしさを増します。
なお、収容所の入場料は無料です。
自分達の悲惨な歴史を世界に発信するために無料公開にして、運営資金は世界に散っているユダヤ人から寄付されているのだろうなぁ。。。
P9279580.jpg


敷地は二重に張り巡らされた高圧電流の通ったフェンスで囲まれています。
あまりの過酷な日々に耐え切れず、このフェンスを使って自殺をした収容人もいたそうです。
P9279588.jpg


各地からユダヤ人たちを乗せた電車が到着すると、彼らはプラットフォームに降ろされ、何か役に立つ知識や技術を持っているか労働に耐えうる者とそうでない者に選別されました。労働力にならないとされた者達は『入浴させる』と騙されて、衣服を脱がされてガス室送りになりました。
女性と子供の大半は、到着後すぐにガス室送りにされたそうです。
残った者は男女に分別されて、下のような建物に収容されました。
P9279589.jpg


劣悪な衛生状態で、疥癬、赤痢などの伝染病がはびこっていました。
食事は薄い水のようなスープと僅かのパン、コーヒーと呼ばれた泥のような飲み物だけでした。
重労働に対してカロリー不足なのはあきらかで、収容者の大半は飢えて亡くなったとのこと。
解放まで生き残った女性の1人は、元はふくよかな体型だったのですが30kgほどにまでやせこけてしまった写真を見ることが出来ます。
皮が骨に張り付き、ミイラのような身体となっていました。
P9279616.jpg



収容所に到着すると、三方向から写真を撮られ、ファイルに登録されました。
ファイリングの几帳面さがいかにもドイツ人らしく、こ憎たらしい。
収容可能人数を越える頃になると、電車が到着すると、選別されることも、ファイルに登録されることなく、全員が即、ガス室送りにされることも多かったそうです。
そのために収容所で亡くなった正確な人数がいまだもって把握できないのです。
P9279647.jpg P9279648.jpg



東ヨーロッパへの移住で新しい土地で生活できる、と騙されてやって来たユダヤ人も多かったそうです。
彼らはこれからも人生・生活が続くものだと信じていたので、大きな旅行かばんにありったけの財産をつめて、鍋や食器、ブラシや靴磨きセットなど日用品の持参して、ここにやってきたのです。
この収容所では、到着したときのユダヤ人達を撮った写真を何枚か見ることができます。
男性はきっちりとスーツ、ネクタイ、コートを着用し、帽子を被り旅行鞄を手にしています。
女性はやはり綺麗な洋服にコートを着ています。
まるでお洒落をして外出するようなファッションで収容所に到着しているのです。
自分が辿り着いた場所の正体を知ったときの衝撃はどれだけのものだったんだろう。
P9279622.jpg P9279624.jpg

これらの犠牲者の持参品は、ドイツが劣勢になり収容所がソ連に解放される直前、ナチスが証拠隠しのために焼却処理しましたが、あまりにもその量が膨大だったために処理が追いつかず、私たちはこのように残っているものを目にすることができるのだそうです。

目の前にうずたかくつまれた品々が、無言のままに語りかけてきます。
ブラシの山、タライの山、カバンの山、ガス室送りになる際に脱がされた靴の山。
私は靴の山の前で動けなくなりました。
大足の男性のブーツ、ひょろっと細い運動靴、ヒールの高いオシャレな靴、明るい色合いのパンプス、子供靴。
今では、おおくの見学者を迎え入れるために、きれいに整備されたこの収容所の中にいると、本当の目的に使われていた頃とはかけ離れていて、たくさんの人々が虐殺された空間にいるように感じなくなるときがあるのですが、人の足の形に添った靴は、ここで物のように処理された人々の1人1人がそれぞれ違う人間で、人生があった事を強烈に語りかけてきました。

P9279627.jpg P9279634.jpg



これは死の壁。奥の壁の前で銃殺刑が行なわれました。
右側の建物は、地下が牢獄になっており、この一室でカトリックの聖人コルベ神父が亡くなりました。
コルベ神父はユダヤ人ではなくポーランド人、でもナチスに批判的な言動をしたということで収容されていたのです。
1941年7月末、脱走者が出たことで、無作為に選ばれる10人が連帯責任の餓死刑に処せられることになりました。
囚人たちは番号で呼ばれていったのですが、フランツェク・ガイオニチェクというポーランド人軍曹が「私には妻子がいる」と叫びました。この声を聞いたとき、そこにいたコルベは「私が彼の身代わりになります、私はカトリック司祭で妻も子もいませんから」と申し出ました。
責任者であったルドルフ・フェルディナント・ヘスは、この申し出を許可、コルベと9人の囚人が地下牢の餓死室に押し込められました。
2週間後、コルベを含む4人はまだ息がありましたが、フェノールを注射されて殺害されました。
助けれれたガイオニチェクは生き残り、戦後世界各地で講演を続け、死去するその時までそれを行いました。またコルベ神父の列聖式典にも参加しました。
P9279669.jpg


ガス室、殺害に使用された薬品の空き缶。
ガス室には偽のシャワーノズルまで設置してあったそうです。
一説には、建物の密閉性や構造を検証した結果、この程度の設備では大量に人間を処理するのは困難で、ユダヤ人が自分達へ有利な世論を誘導するために、ナチスの罪を喧伝した『ガス室捏造疑惑』が存在しているそうです。
P9279686.jpg P9279687.jpg


写真撮影が禁止されていましたが(撮影する気も起こりませんでしたが・・・・)、
収容者の死体からとれる金歯など金目のものだけでなく、利用できるものは全て利用したようで、人の毛髪で織られた布がありました。
身の毛もよだつ話ですが、当時のドイツSS兵は、どのような思考回路でユダヤ人を処理し続けていたのでしょうか。。。。。
下等人種に対して何も感じないようになっていたのだと思いますが、環境次第で人はどうとでもなるものだと、教育の重要性を再認識しました。


人間は周囲の環境に影響されずにはいられませんから、その時代の熱狂にたやすく支配されてしまうのも仕方が無いのかもしれません。
そういう私たち自身も、自分達が知らないうちにマインドコントロールされていない、と言い切れ無いのではないでしょうか。

TVやネットなど、誰もが等しく情報にアクセスできる時代のように見えて、その実、誰かに都合の悪い部分は隠されて、耳障りのよいフレーズに置き換えられ、本当に大事なことは届かないようにされているのかもしれません。


今日はなんとも言いようもなくずっしりと重~い気持ちで帰ってきました。

クラコウ Kracow

長い長い国境を越えて、国際バスは7:43に無事クラコウKracowに到着しました。

バスターミナルはとても広く綺麗。道路も整然としているし流石EU!!
P9269474.jpg P9269476.jpg


ここでちょっとポーランド情報をどうぞ。(外務所HPより)

国名:ポーランド共和国(Republic of Poland)

一般事情

1.面積 32.3万平方キロメートル(日本の約5分の4、日本から九州、四国を引いた程度)

2.人口 約3,814万人(2008年)

3.首都 ワルシャワ(約171万人)

4.民族 ポーランド人(人口の約97%)

5.言語 ポーランド語

6.宗教 カトリック(人口の約90%)

7.国祭日 11月11日(独立記念日)

8.略史

年月略史
966年ピアスト朝、キリスト教を受容
1386年ヤギエウォ王朝の成立
1573年選挙王朝
1795年第3次分割によりポーランド国家消滅
1918年独立回復
1945年7月国民統一政府の樹立
1989年9月非社会主義政権の成立
1999年3月NATO加盟
2004年5月EU加盟

・10世紀に建国。15~17世紀には東欧の大国。18世紀末には3度にわたり、ロシア、プロシア、オーストリアの隣接三国に分割され、第一次大戦終了までの123年間世界地図から姿を消す。

・第二次大戦ではソ連とドイツに分割占領された。大戦での犠牲者は、総人口の5分の1を数え、世界最高の比率。
大戦後は、ソ連圏にくみ込まれたが、「連帯」運動(1980年代)など自由化運動が活発で、東欧諸国の民主化運動をリードした。1989年9月、旧ソ連圏で最初の非社会主義政権が発足した。

・「欧州への回帰」を目標に、1999年3月にNATO加盟、2004年5月にはEU加盟を果たした。

政治体制・内政


1.政体 共和制

2.元首 ブロニスワフ・コモロフスキ(Bronislaw Komorowski)大統領

3.議会 二院制(下院460議席、上院100議席、両院とも任期4年)

4.政府

(1)首相名 ドナルド・トゥスク(Donald Tusk)
(2)外相名 ラドスワフ・シコルスキ(Radoslaw Sikorski)

5.内政

(1)1989年9月にマゾビエツキ首相の非社会主義政権が成立して以来、大統領及び議会の自由選挙が実施され、民主主義が定着。2007年10月に行われた総選挙までは、「連帯」の流れを汲む中道右派政党と旧共産党系の左派政党が交互に政権についた。

(2)2007年10月21日に行われた総選挙(上下両院)では、「法と正義」(PiS、中道右派)と同じく「連帯」の流れを汲む最大野党「市民プラットフォーム」(PO)が勝利。POは、農民党との連立に合意し、同年11月16日、POのトゥスク首相を首班とする連立政権を発足させた。2009年6月7日に実施された欧州議会選挙においても、同連立政権が過半数の票を得た。

(3)2010年4月10日、カティンの森70周年追悼式典に出席のため、カティンに向かっていた政府専用機がロシアのスモレンスク近郊で墜落、カチンスキ大統領夫妻等乗員乗客96名全員が死亡した。新大統領選出のための選挙は6月20日に実施されたが、第1回投票で決着が付かず、7月4日の決選投票により、与党POのコモロフスキ下院議長(53%)が、死亡した前大統領の双子の兄であるヤロスワフ・カチンスキPiS党首(47%)に勝利した。

外交・国防


1.外交

(1)「欧州への統合」を目標に1999年3月にNATO加盟、2004年5月にEU加盟を果たした。WTOには1995年6月、OECDには1996年11月に正式加盟。

(2)トゥスク政権は、独、露等の課題を抱える国とも対話を通じて関係を構築していくとの姿勢。2011年後半のEU議長国就任への準備を重要課題の一つに挙げ、前向きな対欧州外交を展開すると共に、2009年5月に立ち上げられたEU東方パートナーシップの形成に主導的役割を果たすなど、東方政策に力を入れている。

(3)ポーランドは、米国との関係を安全保障の観点から重視。2008年8月にポーランドと米国が基本協定に署名した米国ミサイル防衛システムのポーランド国内への配備については、2009年9月にオバマ政権は見直しを発表したが、ポーランドは新計画においても関与を継続。2018年頃同システムがポーランドに配備される予定。

(4)ポーランドは、国際貢献にも積極的であり、NATO及びEUの枠組等で、アフガニスタン、コソボ、ボスニア・ヘルツェゴビナに人員を派遣。なお、2010年春からのアフガニスタン増派兵力確保のため、2009年末に国連任務を終了している。

2.軍事力

(1)予算 約82.2億ドル(対GDP比1.95%)(2010年)
(2)兵力 総兵力約10万人(2010年)
(3)徴兵制は2009年末で廃止

経済(単位 米ドル)

1.主要産業 食品、自動車、金属、化学製品、燃料

2.GDP 約4,302億ドル(2009年)

3.一人当たりGDP 約11,288ドル(2009年)

4.経済成長率 1.7%(2009年)

5.物価上昇率 3.5%(2009年)

6.失業率 11.9%(2009年)

7.総貿易額

(1)輸出 1,719億ドル(2008年)
(2)輸入 2,105億ドル(2008年)

8.主要貿易品目

(1)輸出 機械機器類、輸送機械、金属製品
(2)輸入 機械機器類、鉱物性燃料、金属製品

9.主要貿易相手国

(1)輸出 独、伊、仏(EUが約8割)
(2)輸入 独、露、中、伊(EUが約6割)

10.通貨 ズロチ(ZL)

11.為替レート 1ZL=約26円(2010年6月)

12.経済概況

(1)1989年の改革後、緊縮政策の導入、旧コメコン市場の喪失などから生産が低迷し、1991-1992年で鉱工業生産は▲35%と急落した。しかし、民間部門の振興、対EU諸国貿易の活性化等により、1992年以後の景気は好調で、GDP成長率は外国直接投資などを原動力に1998年-2000年にかけて4%台を記録。2001年に入り、内需の低迷と世界経済の減速を背景に1%台と減速したが、2003年以降は、好調な輸出と個人消費等を背景に回復し、2006年は6.1%、2007年は6.7%のGDP成長率を記録した。2008年以降は世界金融・経済危機の影響を受け、2008年は4.8%、2009年は1.7%に鈍化したものの、欧州全体がマイナス成長にある中、2009年がプラス成長の唯一の国。

(2)インフレ率は、2000年まで10%前後という高い水準で推移していたが、2006年までは1~4%程度で推移した。2007年から2008年初めにかけては世界的なエネルギー及び食糧価格の高騰をうけて、インフレ圧力が高まった。
(3)依然として一人あたりの所得はEU現加盟国の半分程度の水準であり、今後はEU補助金の有効活用が経済成長のポイント。その他、課題として財政赤字削減、道路等のインフラ整備などが挙げられる。

(4)トゥスク政権は、2008年10月、ユーロ導入目標時期を2012年1月1日とするユーロ導入に関する工程表を閣議決定したものの、2008年の金融危機の影響を受けて、導入目標を放棄。

経済協力


1.日本の援助実績(1989~2008年)

(1)概略
日本は、1989年以降、市場経済及び民主主義への円滑な移行に資するため、技術協力を中心に財政、金融、産業、経済、貿易振興等の諸政策の立案支援をはじめ、生産性向上、品質管理等の企業育成支援や、環境保全等、多岐にわたる支援を行ってきた。ポーランドへのODA支援は同国のEU加盟等を踏まえ終了している。

(2)日本の対ポーランド経済協力実績(実施年度1989~2008年)
(イ)有償資金協力 213.92億円
(ロ)無償資金協力 40.36億円
(ハ)技術協力 89.71億円

二国間関係


1.政治関係

両国関係は伝統的に良好。2007年5月に麻生外務大臣のポーランド訪問や、2008年10月のシコルスキ外務大臣の訪日、同年12月のカチンスキ大統領の訪日及びボルセヴィチ上院議長の訪日など要人往来も活発に行われている。

2.経済関係

(1)日本の対ポーランド貿易(2009年)

(イ)総貿易額 1,643億円
輸出 1,296億円
輸入 347億円
(ロ)主要品目
輸出 自動車、自動車部品、映像機器等
輸入 自動車部品、人造黒鉛

(2)進出日系企業数:約254社(2009年10月現在)

3.文化関係

(1)概略
両国国民の互いの文化に対する高い関心を背景として、文化交流は活発。1994年11月、クラクフ市に日本の浮世絵(約5000点)等を展示した日本美術技術センターが開館。現在の名称は「日本美術技術博物館」。2007年は日・ポーランド国交回復50周年であり、日本とポーランド双方で様々な記念行事が行われた。2009年は日・ポーランド国交樹立90周年。

(2)文化無償協力
〈ポーランドに対する文化無償協力実績〉
年度対象機関供与機材
3 オペラ劇場映像機材及び楽器
4 ワルシャワ大学LL機材・視聴覚機材
5 柔道連盟柔道器材
6 ショパン高等音楽院楽器
6 アダム・ミツキエヴィッチ大学LL機材・視聴覚機材
7 ヤギェウォ大学LL機材・視聴覚機材
8 国立フィルハーモニー楽器
9 ポーランドテレビ局テレビ番組ソフト
10 クラクフ国立博物館視聴覚機材
11 ワルシャワ・ドラマティック劇場音響機材・楽器
12 ワルシャワ国立図書館視聴覚機材
13 日本美術技術センター視聴覚機材
14 ニコラス・コペルニクス大学LL機材・視聴覚機材
15 なしなし
16 ワルシャワ大学図書館視聴覚機材

4.在留邦人数 約1,299名(2009年10月現在)

5.在日当該国人数 約1,000名(2009年12月末現在)

続いてクラコウ情報をどうぞ。

クラコウは、ポーランド南部にある都市で、マウォポルスカ県の県都。人口は約75万で、これはワルシャワ、ウッチに続く第3の規模。

ポーランドで最も歴史ある都市の一つであり、17世紀初頭にワルシャワに遷都するまではクラコウがポーランド王国の首都であり、ポーランドの工業、文化の主要な中心地でした。

ヴィスワ川の上流に位置し、市街地はヴァヴェル城を中心としてヴィスワ川両岸に広がっています。

クラコウの歴史は、ポーランド王国の成立以前にまでさかのぼり、伝承によれば8世紀には成立していたと推測されます。

10世紀にはイベリアのウマイヤ朝イスラム帝国のユダヤ人記録家イブン・ヤクブがこの地方を訪れ、ボヘミアの版図にある交易都市としてクラコウに言及しています。

その後正式にクラコウにおけるポーランド王国(ピアスト朝)の主権が確立し、首都機能がポズナンからクラコウに移ってからはポーランド最大の都市として発展していったが、13世紀にモンゴルの襲撃でいったん破壊されてしまいました。

しかし復興は順調に進み、14世紀よりクラコウは最盛期を迎え、1364年、カジミェシュ3世によってヤギェウォ大学(クラコウ大学 - コペルニクスが大学生として通った大学として知られる。ポーランド最古の大学)が創設され、それからも織物取引所、聖マリア教会などが建てられていきます。

そして西欧での迫害を逃れてやってきた何万人ものユダヤ人が喜んで受け入れられました。

しかし、16世紀より徐々に王国の中心はワルシャワへと移行していき、17世紀初頭には正式に都がクラコウからワルシャワへと遷されました。

16世紀後半にヤギェウォ朝が断絶すると、ポーランドでは貴族らによって運営される身分制議会(セイム)の勢力が強まり、王権の弱体化が進みます。

そうした中、17世紀前半の三十年戦争、18世紀前半の大北方戦争に巻き込まれ国土は荒廃し、クラコウもこの混乱に巻き込まれてしまいました。

18世紀後半には3度のポーランド分割によって国家自体が消滅し、クラコウはオーストリア領ガリツィアへと組み込まれることになります。

1815年のウィーン議定書で、クラコウは自治共和国の地位を認められました(クラコウ共和国)。

しかし、オーストリアによる干渉は強まる一方であり、1846年2月にクラコウ市民が反オーストリア蜂起を起こします(クラコウ蜂起)。
蜂起は鎮圧され、共和国はオーストリアに併合されクラコウ大公国となり自治特権は失われるが、この蜂起は2年後に起こる1848年革命の先駆的運動とも評価されます。

19世紀後半から20世紀初頭にかけて、ポーランド文化振興の中心地として重要な役割を果たしました。

そして第一次世界大戦を経てポーランドが独立を果たし、ポーランド領となった。

第二次世界大戦に際してドイツ軍の占領を受けます。ポーランド総督に任命されたハンス・フランクはクラコウのヴァヴェル城からポーランド総督府の統治にあたりますが、1945年にソ連軍によって解放されます。

現在でも街のカジミェシュ地区に多くのシナゴーグがみられるように、中世よりユダヤ人コミュニティーが存在しました。

14世紀のカジミェシュ大王は最も積極的にユダヤ人を受け入れ、当時はヴィスワ川の中洲だった、河川を利用した運送に適した広い土地を彼らの自治都市として提供したのです。

このカジミェシュ地区はゲットーとは異なり、ユダヤ人が閉じ込められたわけではなく基本的にユダヤ人であってもクラコウではどこでも自由に住むことができたが、ユダヤ人たち自身による行政の自治権が与えられたのがこの地区だということである(第二次世界大戦でドイツによる占領政策が行われるまで、ポーランドにはゲットーというものが存在しなかった)。

後にユダヤ人たちが豊かになるにつれて自治区は対岸にも広がっていきました。

第二次世界大戦中は占領者のナチス・ドイツにより、カジミェシュ地区から見てヴィスワ川対岸にあるポドグジェ地区にクラコウ・ゲットーが創設されます。

オスカー・シンドラー(映画「シンドラーのリスト」の題材となった人物)が経営していた工場は、カジミェシュ地区の南東にあり、クラコウ・ゲットーのユダヤ人を労働者として雇っていました(工場は現在も現存)。

工場のユダヤ人労働者が強制収容所に連行されようという時、彼らを連れ戻してモラヴィア地方のブルニェネツにある工場へと送ったのです。

現代のカジミェシュ地区では毎年7月初旬に大規模なユダヤ文化祭り「シャローム」が開催され、アメリカやイスラエルなど、ポーランドから移住していったユダヤ教徒もやってきて様々な催しを繰り広げ、ユダヤ教徒もキリスト教徒もみな集まって歌ったり踊ったり食べたり飲んだりと、和気あいあいの賑わいとなるそうです。


さて、続きです。クラコウの宿はネットで予約をしていた『Blue Hostel』。
WIFI、共同バストイレ、共同キッチンで120PLN/室。
1ポーランドズウォティPLN = 28.67円(2010.9月現在)です。
P9269477.jpg



このホステルにチェックインし、部屋に落ち着くまでにはちょっとした事件がありました。。。

というのは、、、

ホステルの前に到着したものの、建物に入るドアは閉まっていてベルを鳴らしても誰も返事をしてくれないのです、おかしいなぁ。

しばらく待っていると、ホステルに滞在しているお客さんがたまたま出て来たので、建物内に入ることができました。

ところが建物の踊り場に入ってみたところで、レセプションのある部屋のドアにもしっかり鍵がかかっていたのです。

困ったな~と部屋の前で待っていると、またもや宿泊客がたまたま部屋を出入りするところだったので、便乗して私たちも侵入。ソファで宿のマネージャーを待つことにしました。

待つこと十数分後、宿の男性スタッフUが帰ってきました。
でもなんか疲れたようにふらふらしていて様子がおかしい。
手にはビール缶(大)が3本入ったビニール袋をブラブラさせて、酔っ払っている?

私たちがチェックインしたい旨を伝えると、

U:ごめんなさい、本当にごめんなさい。私のこと待ったでしょ?ネェ、すごく待たせた?ごめんなさいねぇ。お詫びにこのビールを1本ご馳走するわぁ

と朝っぱらからウェルカムビール・・・酔っとるな~ しかもなんか口調がおかしい。

そしてヨロヨロを私たちのほうに歩いてきて、ナヨっと隣に座り込みました。

U:私・・・ゲイなのぉ。(えーーー!!!)今日は日曜日だから、お休みだわぁって思って、たくさん飲んじゃったのよぉ。だって、飲まずにはいられないじゃないのよ。。。10年間付き合ってた彼氏が、昨日私の元を去っちゃったんですもの。(それって自棄酒?)

と言って、ホロホロと涙を流して泣きはじめたのです。

U:ごめんなさいねぇ。私は大丈夫よ!!ここはね、私が経営するホステルよ♪

と空元気を出してみるものの、すぐ涙がホロリ。

U:あぁぁぁぁーーー

とシャナリと斜めに体を傾かせ(いわゆるオカマポーズ)、また泣きはじめました。

私達が励ますものの、一向に泣き止みません。

空元気を出しては、すぐヨヨヨと泣き崩れること数回。

しばらくUに付き合いましたが、夜行バスの旅で相当疲れていた私達、いいかげん鍵を貰い部屋で休むことにしました。

ベロンベロンに酔っ払ったUは動けないので、レセプションの鍵置きから自分で取ってくれと言います。

指定された鍵を取り、部屋を開けるとそこには先客の荷物が散らばっている。。。なんじゃこれ。

Uに部屋を取り替えてもらい、これでヨシっと別の部屋を開けると今度は女性が寝ていた・・オイオイ。

しっかりしてくれ。

3度目の正直で、3部屋目の部屋は誰もいない個室。やれやれやっと落ち着けます。

それにしてもオカマの仕草って万国共通だね。

ちなみにこの二日後、Uに『私達のこと覚えている?』と聞いたところ、全然覚えていない様子でした。

なんだったんだ~~!


ウクライナ→ポーランド国境越え

2010年9月末にウクライナ-ポーランド間の国境を越えたときのお話です。


ポーランドへのバスチケットを購入すべく、リヴィヴのバスターミナルにやってきました。
21時発クラコウKracow行きのチケットを無事ゲット。運賃は210UAH/名。
P9259414.jpg



一日リヴィヴをウロウロと散策し、夕方に宿で荷物をピックアップし、トラムに乗りバスターミナルへ。
P9259473.jpg

この長期旅行に出発する前は、陸路による国境越えを経験したことがありませんでした。

初めての陸路国境越え(中国→ベトナム、徒歩で橋を渡った。)の際には、とてもドキドキしたものです。

でも数をこなすうちに、菊のご紋のパスポートの恩恵もあってか、『帰りの航空券を見せなさい』などと審査官に言われることもなく、ポンッとスタンプを押してくれるので、陸路越えはけっこうゆるゆるなのだと分かってきました。
それでもやはりカチっとした制服のポリスや審査官を目前にすると、やっぱり少し緊張してしまいますけども・・・

今回のウクライナ→ポーランドの陸路国境越えは、これまでで最も長く時間のかかった国境越えとなりました。
非EUとEUの国境だったわけですが、長い時間がかかった体験のお陰で、これまで当たり前だと思っていたEU域内での、人と物のスムーズな流動性が、いかに革新的であったのかということを身を持って知ることになりました。

そんな国境越えの記録。

25日21:00 →国際バスは定刻とおりウクライナ、リヴィヴのターミナルを発車。
順調だね~、イイゾイイゾ~!!

25日23:30 →国境に到着。なぜかバスは路肩に30分停車して日付が変わる頃に再度動き出す。
ウクライナはEUシェンゲン協定外の国、一方のポーランドは同協定の締結国。
もしかしたら、同協定によりEU滞在日数の縛りを受けてしまうウクライナ人ドライバーが、日帰りでウクライナへ戻ることを狙っての時間調整なのかもしれません。

25日23:55 →ウクライナの出国はバスに乗ったまま。ドライバーがパスポートを集めてまとめてもって行く。前のほうに座っていた乗客がドライバーに頼まれたのか、1人づつ名前を呼んでスタンプされたパスポートを配る。


26日00:30 →次はポーランドの入国審査へ。

ポーランド側のイミグレーションに進むと、わらわらとポーランドの国境警備隊がバスに近寄ってきて、念入りな荷物検査を開始。

大きな荷物を預けている人は、外に呼び出されシツコク検査を受けます。

そのうちバスが解体され始め、あちこちからネジをはずす音が聞こえ、警備隊がバスのボディの中を検査し始めました。

すると何人かの乗客たちは、ソワソワ。
慌てて何か荷物を隠し始めました。ガチャガチャと瓶がぶつかる音が聞こえたので、たぶん規定を超えるアルコールを持っているのだと思います。

怪しい風貌をしたオジサン達(多分運び屋)もソワソワしはじめ、バスを降りたり乗ったりを繰り返す。

そのうちバスの天井でドカドカと歩く音がします。検査官が屋根もチェックしているようです。

ポーランドはEUの端っこ、ウクライナとの国境は密入国者や密輸者の出入りが特に多く、厳しい検査がなされるのだそうです。でもこんなに厳しいとは思いませんでした。

そして3時間半の時が過ぎさり・・・

26日04:00 →審査終了。運び屋たちもうまく密輸に成功!!!
うまく隠しおおせたようです。
しかしバスは分解されたままで、検査官達は次のバスに取り掛かっています。ドライバーは検査官に悪態をつきながら、ぶっ壊れたバスを修理し始めました。

26日04:30 →ポーランド入国スタンプの押されたパスポートが、やっぱり乗客の1人によって配付返却される。

あー長かったーーー、これまでで最長の国境越えでした。有り得ない長さだったーー。
それにしても運び屋のオジサン達は何を何処に隠し持っていたのかね。

そして元の形に戻ったバスは、やっとポーランド・クラコウを目指して進むのでありました。

あぁ長い夜だった・・・やれやれ

Top

HOME

ダリオ&ハニコ

Author:ダリオ&ハニコ
夫婦で旅してます。

この人とブロともになる

QR

上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。